賛成した人たちも何も聞かされていない
2014年4月、自衛隊基地工事の着工式のため島を訪れた小野寺防衛大臣に向けて、反対する島民から「帰れ!」との声が飛んだ。一方、自民党沖縄県連副会長だった新垣哲司県議は「ナイチャー(内地人)は帰れ!」と反対する住民たちに叫んだ。
「これから自衛隊員という内地人たちを誘致する立場なのに矛盾している」当時を知る島民はそう回想する。
基地誘致賛成派と反対派の対立は激しく、地域住民同士が分断されてしまった。友人や親戚でも意見が割れ、村八分にされる者や反対したことで仕事を失うものもいた。嫌気がさして、島を離れる者もいた。今は時が経ち、表面的に穏やかさを取り戻してはいるが、その傷は癒えず、この島のあらゆるところにトラウマのように残ったままだ。
「米軍が島に来た昨年11月から、島の空気はまた急激に重くなりました。そこに防衛省からさらなる基地建設計画が発表され、再びあの対立の空気が島を包むのではないかと島民たちは動揺しています」
ある島民女性が語ってくれた。私が集落で感じる重い気配の理由の一端が理解できた気がした。
前述したように安保3文書改正と防衛費倍増が決定されると、突如としてこの島へのミサイル基地、電子戦部隊の配備が発表され、さらには空港滑走路の延長や海上自衛隊の軍港の建設案までが浮上している。
「賛成した人間にも何も情報がこない。何も聞かされていない」
島内で自営業を営むある男性はシニカルに言う。
「多くの自衛隊家族が島に駐在し、すでに家族ぐるみの付き合いになっているので、この状態で自衛隊反対を言うのはもう難しいんです」
反対運動をしていた島民女性はそう語る。とくに基地に反対していた住民には、自衛官の家族や縁者から手厚く手紙や贈り物が届くそうだ。
それが個人的な思いやりなのか、防衛省の島民懐柔策の一部なのかはわからないが、狭い島のなかで自衛隊と共存する複雑さを感じさせる。
そして驚くことに自衛隊誘致の旗振り役だった前町長、外間守吉氏は2月18日付の八重山毎日新聞にこう話している。
「監視部隊は国土を守る思いで賛成だったけど、ミサイルや米軍までとは…」
「国防や国策が、島民の心までを傷つけている」
「こんな小さな島にミサイルを配備するのは理不尽なことで、誰が見ても反対する」
「自衛隊は沿岸監視だけで十分。なし崩し的に(防衛省が町民に)物事を強いると、とんでもないことになることを分かってほしい」
前町長の発言に後悔の念を感じとったが、私が子どもの頃にお世話になったある自営業の男性Aさんは「外間さんは言っていることとやっていることの辻褄が合わない。どちらに向けても良い顔がしたいだけじゃないか?」と前町長を批判した。
Aさんのお宅には元自衛官の自民党議員、ヒゲの隊長こと佐藤正久氏のサインが飾られていたので、意外に思い真意を尋ねた。
「賛成も反対も、私たちの意見は聞き入れられない。国が強引に押し進める。そんな中で私たちは生き延びるしかない。腹が立っても長いものに巻かれるしかない。子どもの学費を払うために、基地関連の仕事ももらってでも、必死で生計を立てるしかないんですよ」
その言葉には強い説得力があった。高校のないこの島では、子どもたちは皆、中学卒業と同時に島外へ出る。安定した収入源の乏しいこの島では、その子どもたちの月々の仕送り代に苦労している親がほとんどだ。Aさんの言葉は重く響く。ここで暮らしている人たちを批判する言葉は、島外の私たちには無いと改めて痛感した。
Aさんはミサイル基地建設についても話してくれた。
「いつか私が死んだ後、この島は基地しかない島になるかもしれない」
前述したヒゲの隊長、佐藤正久議員のサインには「絆」と記されていた。いったい誰と誰の絆なんだろうか。
人口減少や経済振興策として誘致されたはずの自衛隊だったが、島民たちにその実感は薄い。自衛隊家族の児童の増加で小学校の複式学級が解消されたが、それも一時的なものだった。台湾有事がメディアで喧伝される中、自衛官も単身赴任が多くなったのだ。
ある島民は語る。
「町長がシェルター配備の必要性を訴え、島外への避難基金が設立された今、常識的に考えて、自衛官もわざわざ島に家族を連れてこようと思わないでしょう。しかも、隊員は3年ほどの周期で異動しますから、島の祭りや伝統文化の担い手にもなりません。ジーンズ姿で神事に参加して問題になったこともありました。人事異動も機密のようで、挨拶もなく突然いなくなってしまう家族もいます。人間関係を一から作っても結局、去っていく。その繰り返しの虚しさはあります」
自衛隊誘致派の人口増加の目論みは期待はずれに終わった。