琉球王府による与那国島の過酷な歴史
私がこの島に来るのは実は30年ぶりだ。子どもの頃、2度ほど訪れた記憶がある。沖縄の離島(この言葉には賛否あるが、与那国の人々の許可を取った上で使用する)で夏を過ごすというのが、私の家族の習慣だった。この島で巨大なカジキマグロの水揚げを見たり、漁師のおじいさんの原付の荷台に乗って、生まれて初めてスナックに行ってカラオケを歌ったり、アンガマーと呼ばれる祭りに参加したり、特殊な少年時代を過ごした。
なかでも世界最大の蛾であるヨナグニサンの群れが飛ぶ光景は今でも脳裏に焼き付いている。90年代中盤のその頃は、石垣島と台湾をつなぐ定期便があったことで島内にも台湾人旅客や商売人の姿があり、それが活気につながっていた。
この島の数奇な歴史は子ども心に衝撃的だった。日本最西端の漁港、久部良集落の外れの断崖に、久部良バリと呼ばれる岩の裂け目がある。
15世紀、この島はサンアイイソバという女傑が統治していたとされる。1500年頃、首里の琉球王府は石垣島を制圧。さらに1522年頃には与那国も制圧され、琉球王府の支配下に入る。
そして1609年、薩摩藩の琉球侵攻により悲劇が始まる。1611年、薩摩藩の役人が検地を行い、そこから人口に応じて徴税される「人頭税」が開始された。この重税に苦しんだ島民たちは、人口を抑制するためいわゆる「間引き」を行う。妊婦を久部良バリに集め、この岩の裂け目を飛び越えさせた。幅3m、深さ8mのこの亀裂を飛び越えられなければ妊婦は胎児ともども転落死する。運よく飛び越えられても、ほとんどが流産してしまう。筆舌に尽くし難い悲惨な歴史だ。
一方で男性には人桝田(トゥングダ)という死の試練があった。銅鑼や法螺貝の音が突然鳴り響くと15歳から50歳の男たちは皆、島の中央にある田んぼに集まらなければならなかった。制限時間に遅れた者たちはその場で首をはねられたという。病人や障がいのある者たちは「生産性」を問われ、こうして重税のために殺されていった。
現在は「Dr.コトー診療所」のロケ地として観光客が訪れる与那国南部、比川集落の人々もこの重税から逃れるため、さらに南にあるとされる楽土「はいどぅなん(南与那国島)」へ集団で逃避したとの伝承がある。人々は一体どこに辿り着いたのだろうか。深い悲しみが込み上げる話ばかりである。
先島や八重山の島々を苦しめたこの人頭税は1637年から1903年まで続いた。明治時代になってもこの税制が残っていたことに驚く。この人頭税廃止も当時の沖縄県民たちの強い抗議運動によって達成されたもので、島民の代表は嫌がらせを受けながら東京の帝国議会にまでおもむき、請願書を提出した。
辺境のこの島はいつも大国に翻弄されてきたのだ。人頭税に関する琉球と薩摩からの二重の植民地支配を考えると、どうしても今の沖縄の日本と米国からの二重の植民地支配構造が頭をよぎる。
こうした悲しみの歴史は、私の子ども心に刻みつけられていた。それでも私にとっては美しい思い出の残る島だ。
あの頃、お世話になったおじさんはおじいさんになり、おじいさんだった方は亡くなっていた。当時10歳だった私が40歳になったのだから当然だろう。
あれから30年が経過した今も、この島の海の色は他のどことも違う美しさを見せる。現在、沖縄北部に住んでいる私が見ても驚き、同時に怖くなるような強く鮮やかな自然の美しさだ。
祖納集落の漁港、外海は激しく時化ていた。青い内海の向こうに墓地が見えて異界との境界を思わせる。この島にはまだ一部で土葬や洗骨の風習が残っている。火葬せずに埋葬した遺体を数年後に掘り返し、海で洗ってから再度埋葬する。この儀式によって、死霊が浄化され祖霊となるという。台湾や大陸に近い道教的な死生観だ。そう考えると、この島に漂う死の気配にも納得が行く気がした。
自然の純度の高さや霊的な話とは少し違う次元で、この島に漂う息苦しさを感じた。季節のせいだろうか、天候のせいか、薄らと漂う悲しげなムード。私が大人になったからということもあるだろう。しかし、集落の所々にゴミが散乱していたり不穏な空気があるのは確かに思えた。どこか疲れ切った「倦怠」のようなものが渦巻いているのだ。それは賛成と反対で分断され、沈黙を強いられた辺野古の集落と似た静けさだった。
私は異界に旅立ったスニーカーを探すのをあきらめ、サンダルのままで島民たちへの取材を始めた。自衛隊への賛否を問わず、この島の人々の本音が知りたかった。