空洞を小説によって浮かび上がらせたい
パンデミックの影響がじわじわと生活を圧迫する中、平井と菅沼というアラフォー女二人が共同生活を始める。語り手の平井は、男性を忌避しつつ、子供を産む未来を捨てきれない。一方、同居人の菅沼は愛犬を亡くした人のために3Dプリンターで「死んだ犬」を作っている。
第46回すばる文学賞を受賞した大谷朝子氏の『がらんどう』は、どこか不穏な空気をはらんだ女二人の「空洞」を、さまざまな生活の情景に映し、独特の死生観をもって描き切った作品である。しかし、どうにも片付かない虚ろを抱えたこの女二人の共同生活には、仄暗い中にも寄り添う温もりも感じられて、読後感は優しい。それはこの時代を生きる彼女たちの空洞が決して特別なものではないという作者の眼差しによるものだろうか。
「二人の距離感がとてもいい」と評する選考委員の堀江敏幸氏と大谷氏との対談では、さらにこの作品が取り上げたテーマの現代性について掘り下げる。
構成=宮内千和子/撮影=山口真由子
「空洞」や「空白」は、
この小説の大事なイメージ
堀江 まだ直接ご本人におめでとうを言えていませんでした。遅くなりましたが、すばる文学賞のご受賞、おめでとうございます。
大谷 ありがとうございます。
堀江 最初に受賞の一報を聞いたとき、どんな感じでしたか?
大谷 とにかくびっくりという一言です。これまで何回かいろんな賞に応募はしていたんですが、百枚を超えるもので、一次選考を通ったことがなかったので、最終選考に残ったというだけで本当にうれしくて。お電話でのお知らせでは、駄目だったときの受け答えだけのパターンを用意していたら、まさかの受賞だったので、本当にびっくりして、すごく言葉に詰まってしまいました。
堀江 作品に関して言えば、まず全体のバランスがとてもよいと思いました。最初のタイトルから今の「がらんどう」に変えたこともよかったと思います。
大谷 最初は「空洞を抱く」でした。
堀江 そのタイトルだと、読み手に対してあまりに親切過ぎるし、ヒントにもなってしまいますね。でも、私も含めた選考委員の方々は、これは大事なことだからタイトルにしてあるのだというメッセージを素直に受け取りました。今回の作品では、二人が抱える空洞や空白みたいなものを冷たいものにしないで、温かいというか、いろんな場面で最後まで冷やさないようにしている感じがして、そこはとてもいいなと思いました。
あとは、距離感がいいですね。登場人物同士もそうですが、作者との距離感のようなものが近過ぎず、遠過ぎずという感じがずーっと保たれていて、それが空白を大事にする感触とうまくつながっています。
空白といっても、それが何であるかは多分登場人物も分かっていない。例えば赤ん坊のことにしても、気持ちの面でも、生活の細部の面でも、いろいろな意味での空白というのがあって、命だけに関わるものじゃない気がしますね。それがとても大事に書かれていると思いました。最初から計算したものじゃないかもしれませんが、これとこれがこんなふうに結びついてくるんだとだんだん分かってくる楽しみもあって、それもよかったと思います。
大谷 ありがとうございます。本当におっしゃるとおり、私も空洞とか空白というものをすごく大事なイメージとして持っていました。最初に書き始めたときから、仮のタイトルを「空洞」というふうに決めて書いていたので、そこを感じ取っていただけているのはすごくうれしいなと思います。空白を書きたいと思ったのは、何もないものを小説によって浮かび上がらせるようなことができたら面白いかなと、そこから着想して書いていったというところが大きいですね。
堀江 そうすると、このテーマは、これまでお書きになった作品のテーマとも共通しているんですか。
大谷 空白を書こうという試みは今回が初めてです。ただ、こうあるべきというような社会の価値観に当てはまらないような人を書きたいというのは共通していると思います。
3Dプリンターが
象徴するものは――
堀江 選評にも書きましたが、四十二歳の同居人の菅沼が、3Dプリンターで愛犬を亡くした人のために遺影ならぬ遺像としての「死んだ犬」を作っている冒頭の場面はとても印象に残っています。このシーンはどう思いつかれたのですか。
大谷 いろいろ考えを重ねていって絞り出した感じです。小説の最後に赤ちゃんのフィギュアが出て来るんですが、最初の構成では、子宮を手づくりするというようなことを思いついて、粘土みたいな手触りのあるようなもので子宮を作って、それを捨てて生まれ変わるイメージを考えていました。でも、考えていくうちに、捨てられない、生まれ変われないという要素を含めたいなと思って、子宮よりも赤ちゃんにしたほうが象徴になるのかなと思い直したんです。ただ、赤ちゃんを粘土で作るのはちょっと感覚が違ってくるなと思って、もっとお手軽に作れて、かつ、生々しくない方法はないかと考えて、3Dプリンターを思いつきました。実際の出産というものと、ちょうどいい距離ができるかなという計算もありましたし。
堀江 家庭用の3Dプリンターでは、あまり大きなものはできない。でも、胎児や赤ちゃんぐらいの大きさのものであればできるだろうということですね。作るのにも結構時間がかかる。ちょうどお産に必要なぐらいかかるという意味で使われたのかなとも思いました。徹夜で機械を回しているという描写もありましたね。
大谷 ああ、確かにそうですね。
堀江 3Dプリンターとか、あるいはマッチングアプリとか、今出ている新しいもの、若い人がふつうに親しんでいるものを小説の小道具に選んで、うまく使っていらっしゃるなと思いました。
大谷 そうですね。今の時代の象徴的なものを入れたいという思いはありました。リアルに考えて、四十手前ぐらいの女性で、特にそんなに交友範囲も広くなくてという方で、異性と出会うような機会を求めようとすると、やっぱりマッチングアプリが一番手頃で、やってみようかなと思うのはわりと自然なことかなと思ったので。
堀江 そういうことも含めて、この登場人物には現実味があるというか、身近な感じがしました。二人が名字を呼び合っていて、下の名前でべったりいかない距離感もいい。名字で呼び合う関係って、親しくはあるけど、本当のことをまだ言ってない間柄というか、心の深いところまでは踏み込ませないという感じがちょっとあって、その呼び方のバランスもよかったですね。
互いの欠落感を許容しあう関係
堀江 菅沼は小さい頃に消防士になろうと思っていたとありますよね。彼女が平井にルームシェアを持ちかけるわけですが、自分が寂しいからという理由だけではなく、ひょっとすると、平井から本人も意識していない切実な救難信号が出ているのを感じ取ったのではないか。そんな気がしたのですが、いかがでしょうか。
大谷 そうかもしれないですね、確かに。お互いにとってプレゼントみたいな出会いというものを書きたいと思ってはいました。平井にとっても、菅沼にとってもそうだというような形で書きたいなと。
堀江 先ほど温かいものがずっとあると言ったのは、二人がそれを何となく分かっているという感じがあるからです。本音を言わないけれども、じつはお互いに救いに来ている。菅沼のほうが先に救おうとしたんじゃないかと思いましたが、互いに運命的なものとして、お互いにとっての贈りものとしてそれを享受したということであれば、そのように読めますね。
大谷 私自身、二十代後半ぐらいに婚活をしていた時期があったんです。そういうときって、一緒に活動をしている友達と、このまま結婚できなかったら将来一緒に住もうねみたいな話をするんですよ。でも、それって実際はほとんどやらない。そんなことを実際に行動に移したら、親とか世間の目が厳しいという側面もあるけれど、一緒に住んでみたら、すごく楽しかったり、いい面もあるかもしれない。そんな両面を書きたいなと思って、一緒にいる楽しさが伝わるように、そこはすごく気をつけて書きました。
堀江 そういう関係性は、菅沼がつきあっている男と外泊したときの平井の心情によく出ていますね。マンションに帰ってくると、部屋が「がらんどう」なわけです。一緒に住む前は別に何てこともなかったそのがらんどうが、よりがらんどうに感じる。多分それをお互いに感じ合っていて、空洞を埋め合うような今の生活がないともう先に行けない気持ちに二人がなっている。
大谷 ルームシェアや結婚への世間の価値観に関してですが、私自身はむしろ気にしすぎてしまうほうなんです。婚活をしていたときも、結婚を急かしてくるような人は親や同僚含めて誰もいなかったんですよ。むしろ、焦る必要ないよとか、優しい言葉を掛けてくれる方ばかりでした。でも、内心では結婚や家庭を持つことを望んでいるんじゃないかって、そこまで私は考えてしまいました。そういう価値観って、ないものとして扱おうとすると、余計際立つような感触もあって……。小説にはその空気も反映しています。
堀江 はっきり言ったほうがむしろ分かりやすいですよね。私は田舎の出身なのですが、周りの人たちはいつ結婚するのかを、悪意なく普通に聞くわけですね。で、結婚したら、いつ子供ができるのかと聞いてくる。そういうことは昔からあって、だんだん説明するのも面倒くさくなってくる。でも、言わないという心遣いみたいなものが逆に重荷にもなりますよね。
大谷 その上で、そういった価値観から解き放たれている、少なくとも周りからはそう見える菅沼のような人物を書いたり、ルームシェアという選択をさせることは楽しかったです。小説の上では、一歩飛び越えさせてみたかったという気持ちがあるのかもしれないです。
堀江 もう一つ感心したのは、コロナ禍という同時代性が作品の中に非常にうまく取り込まれていることです。例えばコロナ禍という時代背景を抜いてもこの物語は成り立つとは思います。でも、がらんどうというか、空白というものを強化する空気の質が数年前と今とは全然違ってきている。当人でなければ感じられないような空白と、それを包んでいる同僚や同居人といった他者との間にある空気が、以前よりも近寄りがたい、見えない壁のようなものになっている。こういう現実のなかで生き、それと向き合っている感覚が、作品の魅力になっています。
大谷 ありがとうございます。私がこの小説を書いていたのは二〇二一年の十一月頃で、ちょっとコロナが落ち着いても、また次の波が来るのかなという感じで、そういう肌感覚も作品に投影されたのかなと思います。