〈リアル夜王の今〉整形して二重を狭く!? 頼朝が振り返る波乱のホスト人生とシャンパンコール誕生秘話「当時ホストは3年しかできない仕事と言われていた」
2000年代初頭に起こったホストブーム。テレビをはじめ各メディアもこぞって売れっ子ホストを取り上げたが、その中心人物のひとりが新宿・歌舞伎町の有名店「TOPDANDY」で当時ナンバーワンホストだった頼朝氏。そんな彼が生み出したホストカルチャーがシャンパンコール。夜のきらびやかさと狂乱を演出するこの儀式が誕生したきっかけとは? 波乱万丈のホスト人生とともに振り返る。
ホストになった理由は600万円の借金
――かつて“目ヂカラ王”とまで呼ばれた頼朝さんですが、髪型も服装も、なんだかイメージが変わりましたね。
頼朝(以下、同) 10年前にいったん歌舞伎町を離れて、銀座でさまざまな業種のプロデュース業を始めたころ、実は自らの戦略で整形して二重まぶたの幅を狭めたんです。
銀座でビジネスするのにあの“目ヂカラ”は必要ないと思って(笑)。
もう少し優しい目で柔らかい表情が少しでもできるように、キャラ設定を変えました。
黒髪が常識の街ですが、目立ちはしないといけないので髪はハイトーンという(笑)。

二重まぶたを狭める整形手術をしたという頼朝さん
――二重まぶたを逆に狭めるなんて頼朝さんくらいです(笑)。銀座ではどんなビジネスを?
飲食店などのコンサルやプロデュースですね。今回の取材場所のこのカフェもそうですし、それとコロナ前まで、「NINE CONTINUE」というファッション雑誌のプロデューサーもやってます。
――歌舞伎町で身を立てて、銀座を拠点に実業家としても成功をおさめた。
そうです。ただ、今は「groupdandy」(グループダンディ。かつて在籍していた「TOPDANDY」などを経営していたグループ)の「GMC」という店のホスト教育を今年から頼まれていて、歌舞伎町でも活動してます。店舗の代表から「従業員のモチベーションを上げてくれ」と、ものすごくファジーな注文で(苦笑)。でもそういうオーダーに答えるのも好きなんです。
――また歌舞伎町でお店のプロデュースなどもありそうですね。
そうなんですよ。いろんな人から「そろそろ(ホストクラブの)店をやらないか?」と誘われます。いつになるかわからないけど、またやりたいとは思ってます。
ただ、この10年ずっと銀座にいたから、やるにしてもまずは歌舞伎町の現状を改めて知ることからですが、僕がやるなら業界の未来をつくるものでないと意味がないと思ってます。

新人教育中の頼朝さん
――そんなゆかりの歌舞伎町でホスト人生をスタートさせたきっかけは?
学生のときからブランド系の服が好きで、金を使いまくってたんです。マルイで36回払いで買いまくったりとか。それに学費や芸能絡みの詐欺にもあったりして、気がついたら借金が600万円に膨れ上がってたんですよ。
1年目からボーナス60万も、ホストの世界へ
――学生で600万円の借金!?
当時はそこまで珍しくはなかったですよ。
それで1年遊んで復学後に就活をして、一部上場したばかりのプロミス(現SMBCコンシューマーファイナンス)に就職したんです。当時は超就職氷河期。軒並み求人が減るなかで消費者金融とパチンコ業界だけは右肩上がりで初任給とボーナスがとてもよかった。
それで借金が600万円もある僕は将来を見据える余裕なんてないからプロミスを選んだんです。なにせ初年度ボーナスが手取り60万円でしたからね。すごくないですか?
――めちゃくちゃ高い!
でもいくら給料がよくても600万円を返していくのは大変。そこで副業を始めようと思った矢先に後輩がホストをやってるってことで紹介してもらって、その後、すぐに当初の「TOPDANDY」の前身の店でバイトしてました。
――副業でホストは大変そうですね。
当時は風営法が緩かったから深夜1時から朝方まで営業して、歌舞伎町のサウナでちょろっと寝て、それから出勤前の朝7時に債務者のところにまわってお金を回収して……。
当時は門前仲町の実家に住んでたんですが、帰れるのは月に数日のみ。それ以外はサウナに寝泊まりしてたから、人生で一番睡眠時間を削って働いてましたね。

ホスト現役時代の頼朝さん
――そしてナンバーワンへ。
借金返済のためにやり始めたはずなんですけどね。後から入った後輩がナンバーワンになったのがすごく悔しくて、この世界に入ったのは24歳とかなり遅いですが、「自分も絶対にナンバーワンになってやる!」という思いが強くなり、プロミスは入社1年で辞めてしまいました。
――どのように売上をあげたのですか?
ホストは完全実力主義。フル出勤して、太客(金払いのいい常連客)よりも組数を入れるために、とにかく毎日キャッチとナンパをしまくってました。
会社を辞めてから3か月でナンバーワンになりましたよ。
シャンパンコール誕生秘話
――2000年代初頭はいわゆる「暴力団対策法」も今よりもゆるく、ヤクザとのトラブルも多かったのではないでしょうか?
あの頃の歌舞伎町って歩いてりゃ、そっち系の方々がゴロゴロいましたよ。
でも面白いことに、出勤前に毎日のように道端で顔を合わすもんだから、最終的には「どーも」ぐらいは会釈しあっていましたね。
――会釈以上の関わり合いを持とうと、ヤクザから言い寄られたりは……?
そうですね。「お前、売れてんだってな。金貸してくんねえか」って声かけてくるのは日常茶飯事。それとか、いろいろと因縁をつけては「ケツ持ちさせろ」と言い寄ってくるのをかわすのが大変でした。
関係は持たないようにしないといけませんので。でも、僕のエース(一番の太客)の女性客と他店のナンバーワンホストにヤクザ屋さんが絡んだ大乱闘もあったなあ……。
――絶対に関わりたくない大乱闘ですね。
当時の歌舞伎町で飲んでる女の子もめちゃ気が強いて引かないんですよ。
激昂したヤクザが他店のホストにつかみかかって、ボトルを振り回しての大騒ぎ。
とにかく毎日、マンガみたいな出来事が起きてたから、その一つひとつはもう忘れてることのほうが多いです(笑)。
不思議なもんで、がんばり続けていろんな露出も増えると、逆に誰にも何も言われなくなりました。出過ぎた杭は打たれないって感じなんですかね。
――そんな日々のなか、頼朝さんはシャンパンコールを生み出します。
“シャンコ(シャンパンコール)”のルーツは、学生時代に遡ります。
当時、ディスコへ行くようになって、イベサーを作ってパラパラのユニットでデビューしたりもしてて、飲み会の時にやってたマイクパフォーマンスの経験が活きたんです。

シャンパンタワーの前で
――やるようになった経緯は?
本職としてホストをやるようになって、“この業界を変えたい”ってマインドになったのが大きい。
これまで自分が見てきたエンタメの世界の醍醐味を、もっとホスト業界に落とし込める、ホストクラブをもっとエンタメにできるはず、と思ったんです。
――その第一歩はなんだったのでしょう。
それまでのホストクラブは祝い事でシャンパーニュ(シャンパン)を出すくらいで、それ以外は基本的にブランデーを出してたんです。だから当時はホストは3年以上続けられないと言われてました。アルコール度数が高いブランデーばっかり飲んで肝臓を壊すから(笑)。
でも本数を出したいならブランデーよりシャンパーニュのほうが圧倒的にいい。それで学生時代にやっていたコールをベースに シャンコを始めたんです。
そのうち、“ドンペリ隊”とか“マイク隊”とかセクションを振り分けて、「『TOPDANDY』でシャンパーニュを頼むと何かが始まる」という仕組みをつくったんです。
日本にシャンパーニュをもっと普及させたい
――その評判が他店にも広がっていった、と。
毎日、日本全国から同業者さんも含め、いろんな人が見に来てました。
「シャンコ、パクリにきましたー」って。僕らも「どーぞ」って。
いろんな大人が「商標を取れ」とか言ってきましたね。でもパクられるのが嫌だと思わなかったし、そんなことよりも店を盛り上げることに必死だったので、商標は取りませんでした。
――まさか他店が堂々とパクリに来てたとは。
そうなんですよ。シャンコの起源についてはいろんな説があるけど、学生時代のストックから、自分でコールを作り、独自にシステム化して多くの人に見せて、伝えたのは僕なんだろうとは思っています。
だから今後も日本にもっとシャンパーニュを普及させるのが僕の今の目標ですね。
――シャンパンコールで十分、普及させたと思いますが、さらに普及させたいと。
もともと日本ソムリエ協会認定のソムリエ資格は持っていましたが、コロナ禍中にフランスに本拠地を置く「シャンパーニュ地方ワイン生産同業委員会(略称C.I.V.C.)」のシャンパーニュMOOCという試験に合格したんです。
日本では50人くらいしか取得していない資格なんですよ。

今回着ている服も応援している日本人デザイナーのアイテムだという
――そこまで真面目にシャンパンに向き合っていたとは。
僕もなぜここまでシャンパーニュに惹かれるんだろうかと考えたんですよ。みなさんが言うシャンパンって、フランスのシャンパーニュ地方でつくられたスパークリングワインのみ呼称が認められます。
で、シャンパーニュ地方の人たちが自分たちが作った瓶内二次発酵のプロセスにより醸造したものを、シャンパーニュと名乗り始めたのが1690年だと言われています。これは現在では原産地管理呼称で保護されているものです。
すごい偶然なんですけど、僕がホスト始める前の携帯番号の下4桁が1690だったんです。
それで勝手に縁があると思い込んでて(笑)。だから、きちんと知識を持ったうえでシャンパンを日本のマーケットに普及させたいと本気で思ってるんです。
※
シャンパンコールの創始者は、その源泉となるシャンパーニュへの愛もめいっぱい深かった。
ホストのイメージを変えた頼朝さんだが、今、新たな社会問題に直面しているホスト業界に何を思うのか。
後編では現代ホストへの提言と頼朝さんの恋愛観を聞く。
取材・文/河合桃子
集英社オンライン編集部ニュース班
撮影/池上夢貢
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