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栄光と挫折

そもそも池田大作という存在を、私たちはどのようにとらえるべきなのだろうか。

池田は宗教家に分類しうるが、他の宗教団体の開祖や教祖と比較した場合、その性格は大きく異なる。教祖と言えば、一般には霊能力をはじめとする特殊な能力の持ち主として考えられている。

だが池田の場合、霊能力はもちろん、教祖なら備えているはずの特殊な能力は何一つ備えていない。池田が病気治しをしたなどという話はまったく伝わっていない。それは彼の師である戸田城聖の場合も、さらに戦前に創価学会の前身にあたる創価教育学会を創設した牧口常三郎の場合にも共通する。そこには、霊についての信仰をもたない創価学会の特質が関係している。

池田は創価学会自体の創立者ではなく、牧口、戸田に次ぐ3代目の会長である。ほとんどの新宗教の教団において、もっとも重要な役割を果たし、信者からの人望が厚いのは創立者である。ところが池田は3代目であるにもかかわらず、歴代の会長のなかでもっとも重要な存在と見なされてきた。創価学会と言えば、池田大作という印象が強い。

池田は、日本で最大の新宗教団体を半世紀以上にわたって率いてきただけに、さまざまな形で批判や非難、誹謗中傷を受け、女性関係にまつわるスキャンダルまで暴かれてきた。それでも、最期まで巨大組織の最高指導者の地位に君臨し、失脚したり、その地位を失ったりすることなく、人生をまっとうした。これは、驚異的なことである。

戦後、戸田と出会った池田は、戸田の経営する出版社や小口金融の会社で働き、頭角をあらわすことで、創価学会のなかでも布教活動の最前線に位置する参謀室長に抜擢された。とくに、創価学会の幹部が日蓮宗の僧侶と法論を戦わせた1955(昭和30)年の「小樽問答」は、池田の組織のリーダーとしての資質を証明する機会となる。

この問答での議論は平行線のままで、決着がつかなかった。ところが、創価学会側の司会者をつとめた池田は、終了間際に法論に勝ったのは創価学会だと言い立て、学会が勝利したという「空気」を作り上げることに成功した。日蓮宗は、この小樽問答以降、創価学会との議論を禁止したので、実質的に創価学会は勝利をおさめたと言える。その功績は大きい。

しかし、2年後の1957年、参議院大阪地方区の選挙運動に従事した池田は、戸別訪問の容疑で逮捕、起訴され、最終的には無罪とされたものの、裁判にかけられた。その後も、1970年に『創価学会を斬る』(藤原弘達著)の出版をめぐって言論出版妨害事件を起こした際には、国民に謝罪するとともに、公明党との政教分離を宣言しなければならなかった。池田は常に組織の先頭に立ち、矢面にさらされてきたからこそ、こうした苦労や挫折も味わってきたと言える。

故・池田大作「私ほど監視され続けた人生も少ない」教祖なら備えているはずの特殊な能力はあったのか? カリスマの栄光と挫折_1
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言論出版妨害事件以降、創価学会に対する社会的な批判は高まり、国会で追及されたり、創価学会批判の書物が大量に刊行されるようになる。それによって、池田は独裁者であり、権力の亡者であるというイメージが作り上げられていった。

さらに、学会の組織のなかで重要な地位を占めていた側近が、池田に対して反旗を翻すといった出来事も続く。東京都議を長く務めた龍年光や、創価学会の顧問弁護士であった山崎正友の離反などがそれにあたる。龍は、創価学会の古参の幹部で、長年公明党都議会議員をつとめたにもかかわらず、創価学会が日蓮正宗から破門されたときに脱会し、その後は池田批判をくり広げた。山崎は、学会の学生部出身で、顧問弁護士をつとめていた時代に日本共産党の宮本顕治宅盗聴事件に関与し、その後は、学会を恐喝する側にまわった。

最初に日蓮正宗からの独立をめざした1977年には、日蓮正宗の側からの猛反発で計画は頓挫し、池田は大石寺に赴いて詫びを入れなければならなかった。それでも事態はおさまらず、池田は会長の座を降り、名誉会長の職に退いた。あわせて大石寺の法華講総講頭も辞任した。これは池田にとって生涯最大の屈辱だったのではないか。

前原政之『池田大作――行動と軌跡』によれば、池田が名誉会長に替わった際、会員たちの前で挨拶しても拍手はまばらで、この時期、「聖教新聞」に池田のことばや写真が掲載されない日々が続いたという。会合に出ることさえままならなかった。池田は一時、創価学会の組織からさえ見放されていたのである。

そもそも池田は病弱だった。その恰幅のよさを示す写真ばかりが巷にあふれているため、想像しにくいが、戦後、創価学会に入会した時点では肺を病んでいた。戸田からは、「大作は、30歳までしか生きられないかもしれない」と言われていたほどである。夫人の香峯子は、そのインタビュー集である『香峯子抄』のなかで、結婚以来、夫の健康管理に腐心してきたと語っていた。

2003年の春には、池田の重病説が流れ、実際、会合に姿を見せなかった時期もあった。それでも一旦は見事に復活し、会員の前で健在ぶりを示した。2006年10月には、海外の大学、学術機関から200個目の名誉学術称号を授かったのを機に、13年ぶりに一般のメディアの前に登場した。だが、その後は本部幹部会でのスピーチの大半を代読させるようになり、ついには幹部会に出なくなった。時折、その写真が「聖教新聞」などに掲載されるだけで、会員の前にまったく姿を見せなくなる。そして、2023年11月15日に95歳で天寿をまっとうしたのだった。