マンガの黄金時代とTOKIO
高橋氏は昭和33年(1958)から34年(1959)にかけて椎名町駅の近くに住んでいた。当時の暮らしは非常に厳しく、家賃もなかなか払えない。
支払いをしのごうとして父親が通帳に細工し、大家さんに「お互いに貧しいのだから、いってくれればよかったのだ。無慈悲に取り立てるわけじゃない。だが、誤魔化すのはいかん」と諭されたこともあったという。
そしてこの同じ時間に、マンガの聖地として知られる「トキワ荘」もちょうど黄金時代を迎えていた。
藤子不二雄のひとり、安孫子素雄がトキワ荘を初めて訪ねたのは、昭和二九年二月のことだった。それは後で本格的に上京するための下見だった。安孫子は雑誌社への訪問の後、トキワ荘の手塚を訪ねた。手塚は喜んだが、他所(よそ)でカンヅメになるため出かける必要があって、反対の二二号室の寺田に、安孫子を紹介し「ちょっと相手をしてやってくれ」と頼んだ。手塚は数時間のつもりだったが、すぐには帰って来なかった。結局、安孫子は一週間ほど寺田の部屋に滞在することになり、その間、ふたりは急速に親しくなっていった。(トキワ荘マンガミュージアム マンガが若かったころ)
トキワ荘は昭和57年(1982)に取り壊されたが、後の令和2年に再現された「トキワ荘マンガミュージアム」を高橋氏は訪れる。そこを出てふり返ると、まるで夢の中の風景のようだったという。
桜の花が、建物をおおうように咲き誇っているのが見えた。まるで夢の中の風景のようだった。けれども、それが、誰の夢なのかはわからなかった。(ときわ荘マンガミュージアム マンガが若かったころ)