テニスで染みついた習性が、記者への扉を開くカギに

プロになった後は、練習環境を求めて1年間は米国フロリダ州を拠点とし、世界各地の大会に出場する際は、基本は自分一人での遠征。1995年には、全豪オープンの予選を突破しシングルスで本戦へ。ダブルスでは全豪、全仏、ウィンブルドン、そして全米オープンにも出場した。

だが翌年は戦績を落とし、精神的にも苦しい時期を過ごす。

「遠征中も、新聞の求人広告を見ていた」という日々の末に、1997年初頭に東レパンパシフィックオープンに出場するも、予選1回戦で敗退。結果的にこの試合が、“プロテニスプレーヤー”としての最後の試合となる。25歳の時だった。

心がテニスから離れ始めたこの当時、ある出来事が、最終決断へのスイッチとなったという。

「東レの試合を終えた2月に、図書館の帰りに運転していた車が衝突事故にあったんです。大ケガをしたわけではないんですが、『テニスを辞める』というスイッチを入れるには十分でした」

交通事故の衝撃と共にテニスと決別した長野さんは、その後も求人広告に目を通すも、なかなか思うような職は見つからない。

「どこの世界にも求められてない——」。そんな自己否定感にも襲われる中、今につながるきっかけを得たのは、なじみの飲食店という意外な場所だった。

「そのお店の常連に毎日新聞社の方がいて、その方が週刊誌の『サンデー毎日』でバイトを探しているという話をしていたそうなんです。お店の方を介してそれを聞いて、『サンデー毎日』の編集部にバイトに行きはじめました」

かくして「学生バイト」扱いで得た職で、長野さんが任されたのは、「読者アンケートはがきの集計と整理」だった。元トップテニスプレーヤーの待遇に、周囲は「これでいいの?」とやや気兼ねもしただろう。ただ本人は、初めて経験する仕事が楽しかった。

そのうち記事を書くことにも興味を持った長野さんに、当時の編集長が「お題作文を書いてきたら添削してあげるよ」と提案してくれる。早速、長野さんは作文を提出するようになった。それも、毎日欠かさずに……。

「後から言われて笑い話になったんですが、私は赤入れされたらそこを直して、次の日に持っていってというのを毎日やっていた。それはもう、テニスの練習で身体に染みついた習性みたいなものなんです。でも周りの人は驚いていたみたいですね、毎日持っていってるよって」

目標を定めたら猪突猛進する長野さんの姿勢に、編集長は記者の適性を見たのだろうか。そのうち誌面作りを任されたり、取材に連れていってもらうようにもなる。

「すごく楽しいし、ずっとこういう仕事をやりたいと思った」という長野さんは、週刊誌の仕事をしながら毎日新聞社の中途採用試験を受け、2度目の挑戦で見事合格。

2003年に入社し、水戸支局の配属となった。31歳の時である。