「パキスタン人はもともと日本のことが大好きなんですよ。学校では必ず、広島と長崎への原爆投下について教えるんです。私も授業で習いました。それでも日本はがんばって復興して、経済発展を遂げた。だからみんなもがんばりましょうって、先生が言うんです」
そうハフィズさんは語る。それに日本の敗戦は1945年、パキスタンのインドからの独立は1947年だ。同じような時代に、苦難から新しい時代に向かって歩き出したことも、パキスタンではシンパシーを持たれているのだという。
「日本のことは好きでも、共通のスポーツがあまりないから、日本の選手がパキスタンに来ることはほとんどなかったんです。だから日本の有名レスラーが来るというのは嬉しかったんですね」
英雄は腕を折られて負けたが、それはスポーツの結果。パキスタン国民は勝者を称えた。それに従来の親日ぶりと、遠来の旅人をもてなすというイスラムの教えもあって、パキスタンでも猪木さんは人気となっていく。
そんなパキスタンで猪木さんは再戦を果たした。1979年に、ペールワン選手の甥ジュベール・ジャラ・ペールワンと戦い、このときは引き分けとなっている。その後も猪木さんはたびたびパキスタンで試合を行い、現地での英名は不動のものとなっていった。
「闘魂注入ビンタ」食らったパキスタン人実業家が語る。パキスタンでもアントニオ猪木が愛された理由
10月1日に亡くなったプロレスラー・アントニオ猪木さんの訃報には、パキスタンでも悲しみが広がっている。遠い西アジアの地でも「ヒーロー」として愛されていたのだ。その理由は46年前の「伝説の一戦」にあった。
日本の中のアジアを旅する#13
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政治家・猪木の名声を高めたチャレンジ