英語の発音はすごくきれいだった

まるで映画のなかにいるみたいな一夜だった。猪木はケリー・ブラウンという若い選手とシングルマッチを闘い、海外遠征仕様の赤いタイツをはいた藤波はザ・コブラ(ジョージ高野)とのコンビでブレット・ハート&デイビーボーイ・スミスとタッグマッチで対戦。

猪木の付き人の高田は、当時カナダで修行中だった先輩のヒロ斎藤とシングルマッチで対戦し、20分時間切れで引き分けた。

試合が終わったあとは、プロモーターのキニスキーがダウンタウンの日本料理店に選手、関係者を招いて食事会を開いた。ぼくはどういうわけか、猪木、キニスキー、カリガリーからやって来た大物プロモーターのスチュー・ハートの3人が座っていたテーブルのすぐとなりに席をとってしまった。

猪木とキニスキーは(あたりまえといえばあたりまえだが)ずっとプロレスのことをしゃべっていた。ぼくはふたりの会話をずっと聞いていた。猪木の英語の発音はすごくきれいだった。ぼくの目の前ではぼくと同い年の高田がどんぶり飯をかっこんでいた。

猪木、キニスキー、ハートの3ショットの写真をお願いすると、猪木はぼくのカメラに向かってほほ笑みかけた。それはファインダー越しのことであり、ぼくの単なる思い込みだったのかもしれないけれど、猪木はその瞬間、ぼくだけにほほ笑みかけてくれた。

猪木は死んでも生きている――僕だけに微笑みかけてくれたバンクーバーの夜【斎藤文彦】_2
1983年12月19日。バンクーバー興行の成功を祝し、握手するジン・キニスキー、スチュ・ハート、アントニオ猪木(左から)  撮影/斎藤文彦

これはぼくが日本に帰ってきて、この仕事にするようになってから実感し、理解したことだが、日常的にプロレスのそばにいる記者やカメラマンでも、猪木にはなかなか近づくことができない。

いつも周りには何人もの側近がついていて、つねに時間に追われていて、1日のなかで予定の場所から予定の場所へと移動をくり返しながら猪木は24時間シフトで“アントニオ猪木”を演じている。