イスラーム反体制運動の胎動
ところで、イスラーム宗教勢力といえば、さぞかし時代遅れの「反動的」勢力と想像されるかもしれない。だが、先に挙げた民族運動の展開に常に寄り添う重要な役割を歴史的に果たしてきたことは見落とされてはならない。
サファヴィー朝(1501~1736年)が国教に据えた「12イマーム・シーア派」の場合、スンナ派と異なり、宗教学者の政治社会的影響力は強い。18世紀以降に台頭した「オスーリー学派」の主張に沿って、イスラーム法解釈を行う最高権威(マルジャエ・タグリード=「模倣の源泉」。以下、マルジャ)の見解に、下位の宗教学者や一般信徒も倣って行動することが制度的に定着するようになったからである。
1890年に英国人投機家に譲渡されたタバコ利権を、当時マルジャであったハサン・シーラーズィーが宗教令を発し、その結果翌年に撤回に追い込んだタバコ・ボイコット運動がこの制度に基づく民族運動の成功例として知られている。その後、立憲革命、レザー・シャー独裁に反対する抗議運動、そして石油国有化運動にも、マルジャでなくとも、高位の宗教学者たちが参画し、指導力を発揮した。
話を「白色革命」に戻せば、1960年代初頭、マルジャとして多くのイラン国民から尊敬された「大アーヤトッラー」のホセイン・ボルージェルディー(1875~1961年)が死去したばかりであった。そのため、シャー政権は、先の6項目からなる「白色革命」に対して宗教勢力の反発は少ないと考えていたふしがある。
しかし、その楽観的な予想は外れた。高位の宗教学者のなかで比較的劣位にあったが、マルジャに昇格したばかりのルーホッラー・ムーサヴィー・ホメイニー(1901~1989年)が痛烈な「白色革命」批判を展開し、重大な政治社会問題に発展するのである。
ホメイニーは先述した「白色革命」に盛り込まれた女性参政権の付与とその賛否を問う国民投票(1963年1月)も、シャー独裁体制下で「民主化」を装う欺瞞的なものに過ぎないと非難した。また、シャー政権が「貧者の労働から膨大な富を蓄える……寄生虫」であるだけでなく、反イスラームの米国・イスラエルの「傀儡」であるとも言い放った。
こうした辛辣な批判を行うホメイニー、それに同調する宗教学者や説教師の大量逮捕がその後実施された。これによって、「ホルダード月15日蜂起」(1963年6月5日)として知られる大規模な反シャー運動も発生した。これにも容赦ない弾圧が加えられ、わずか1日で5000人以上の死傷者が出る惨事も発生したと言われる。
しかし、シャー政権によるこうした弾圧で、事態は終息しなかった。翌年10月、議会で可決承認された「米軍地位協定」が新たな火種となったのである。
沖縄の米軍兵士の犯罪行為で一躍知られるようになった「日米地位協定」のイラン版と言って間違いないこの協定は、駐留米軍関係者(いわゆる「軍属」)にさえ「外交特権」を公式に認める内容であった。さらに5年で2億ドル(10年返済で元本と利子で総額3億ドル)の借款協定をセットとしていたことから、ホメイニーはそれを「売国的」協定であると同時に、イスラームにとって「屈辱的」なものと捉えた。