独裁政権の成立と米国の登場
ところで、先述した民族運動への大国の介入が一過性のものであり、その後の事態が平穏に戻ったと考えるべきではない。介入後には独裁政権の成立が目撃されるようになるからである。
たとえば、1925年にガージャール朝を廃し、パフラヴィー王朝を興した国王レザー・シャー(1878~1944年)は以後独裁体制を構築する。必ずしも、その政変自体、英国の直接関与の結果とは言えないが、1919年英・イ協定で発生した深刻な政治危機から脱するために行われた1921年クーデターで突如台頭したことは間違いない(イランでは、そのクーデターも英国の「陰謀」と信じられている)。
そして、レザー・シャー体制下では、不平等条約の撤廃や法制度面での近代化が急がれたが、三権分立を無視した政敵の徹底排除が実施された。特に、1934年以降には、世俗化・反イスラーム政策も導入された。
こうした国王レザー・シャーはナチス・ドイツとの良好な関係を問われ、英ソ共同進駐直後に退位に追い込まれた。その後を継いでパフラヴィー王朝第2代国王に即位した息子モハンマド・レザー・シャー(以下、シャー)の場合も、大国の介入後に独裁に走った点で同様である。
そもそも、彼の即位には英国の意図が働き、当初憲法を遵守する「立憲国王」としての誓いを立てていた。しかし、先の石油国有化運動を打倒する1953年クーデターを経て、米国の支援を受けて独裁者に変貌した。
特に、このクーデターだけでなくシャー独裁成立に、米国が主要な役割を担ったことは、多くのイラン人にとって「青天の霹靂」に近いものがあった。
それには、立憲革命でタブリーズ市民軍に参加し、命を落とした米国人教師H・バスカーヴィル、財政再建に骨身を削ったシャスター、さらに第一次大戦後と第二次大戦中にイラン財務省の組織再建を担当したA・C・ミルスポーなど、それまで米国人が行ってきた活動は多くのイラン人から肯定的に評価されてきた経緯がある。米国は従前の大国とは異なる善意の第三勢力として期待されていた。
しかし、イランの人びとのこうした素朴な「米善説」は見事に裏切られた。1957年にCIAがその組織化に手を貸したSAVAK(国家情報治安機構)によって、王政に批判的な勢力や政治的自由を求める活動家に対する徹底弾圧が実施された。トゥーデ党(親ソ派共産党)、NFの後継組織やリベラルな知識人まで、広く反体制組織関係者が次々に逮捕・投獄され、また拷問を受けるようになった。
さらに、1960年代初頭に開始される「白色革命」がシャー独裁体制の強化策として導入されたが、それは米国(J・F・ケネディー政権。1961~1963年)のラテン・アメリカ向けの 「進歩のための同盟」に対応した政策として知られている。
農地改革、女性参政権、農村向けの教育部隊の創設、国営企業の民営化、森林の国有化、工業労働者への利益配分という、6項目からなるその「上からの改革」は、「白色」にシンボライズされた「穢れのなさ」と「革命」に含意された国民の支持に基づく大規模改革として、近代化への邁進を謳いあげ、シャーが「開明的な国王」であることを内外に訴える好機でもあった。
しかし、そこに民主主義というあるべき政治的な近代化が欠落していた。もろ手を挙げてその実施を賛美した米国は、いっそうイラン国民の失望を買うことになった。