大量の「脅迫状」
「けいさつのあほどもえ」などと、センセーショナルな挑戦状や脅迫状はとどまることを知らず、結局企業や警察、マスコミに届いたものは147通もの数に上りました。関西弁で書かれた脅迫状の内容は徹底的に警察、マスコミ、食品メーカーを愚弄するものでした。
『かい人21面相ファンクラブの みなさん え(中略)
新春けいさつかるた
あ あほあほと ゆわれてためいき おまわりさん
い いいわけは まかしといてと 1課長
う うろうろと 1日まわって なにもなし
え ええてんき きょうはひるねや ローラーで
お おそろしい かい人のゆめ みとおない
か からすにも あほうあほうと ばかにされ』
(1985年1月25日投函分一部抜出)
当時の私は、挑戦状や脅迫状が届くたびに、そのコピーをカメラマンに一行一行接写してもらい、大慌てで編集していました。「どの言葉がいるんですかーーー!」と編集室から報道デスクに若手の私は叫んでいたのです。
これほど大量の文章が届くと、次第にどこに重要な情報が隠されているのかわからなくなってきます。文面通りに受け取っていいものか、実は重要ではないと思われている部分に何か隠されているのではないか、といった雰囲気が私たちの中に出てきていたように思います。
警察もマスコミも、犯人の言葉一つひとつに、面白いように振り回されていたのです。それも犯人の巧妙な意図だったのかも知れません。
模倣犯罪の犯人は全員逮捕も
江崎社長誘拐事件から約一年半、1985年8月12日に犯人グループは突然、「くいもんの 会社いびるの もお やめや」という終結宣言を出します(8月11日投函)。
脅迫されていた会社の一つであったハウス食品工業の浦上郁夫社長は、この終結宣言を受けて、その日のうちに同社創業者である父親の墓前に報告するため、大阪行きの航空機に搭乗します。それがあの御巣鷹山に墜落した日本航空123便だったのです。この機に飛び乗った浦上社長は墜落事故で亡くなりました。
その後、犯人の動きはピタリと無くなります。この事件の捜査に関わった捜査員は、延べ130万1千人、捜査対象者は12万5千人と言われています。2000年にはすべての事件の時効が成立し、警察庁広域重要指定事件では初の未解決事件となりました。
この一年半の間に繰り広げられた犯人グループと警察との駆け引きは、まさにドラマティックとしか表現できないものでした。取引現場の細い道で、犯人の車両と警察車両がすれ違っていたとか、キツネ目の男との息詰まる追跡劇、ついに犯人を確保したかと思えば、身代わりにされた一般人だったとか……。
興味のある方は、ぜひこの事件をまとめた本を読んでみてください。最近になってもさまざまな立場の方々が出版されています(「キツネ目 グリコ森永事件全真相」岩瀬達哉[講談社]、「未解決事件 グリコ・森永事件捜査員300人の証言」NHKスペシャル取材班[新潮社]など)。
そして実は、このグリコ・森永事件が起こると同時に、模倣する犯罪が多発していたのです。30件ほどの模倣犯罪が起きましたが、その全ての犯人が逮捕されています。いかにグリコ・森永事件の真犯人が一筋縄ではいかない知能犯だったのかがわかります。