西欧社会にも自由と宗教の「共通の規範」はない
内藤 同じことは、西欧に対しても言えることです。先ほど申しましたけれども、自由と宗教との関係などを考えてみると、西欧諸国の間にも共通の規範になるものはありません。
生物の進化論を受け入れるかどうかと同じことです。イスラームは進化論を受け入れませんが、同じようにキリスト教の一部の保守派は進化論を受け入れないですよね。しかし、そういう人を排除していいということにはならない。
そこは「いろんな人がいるんだ」という多様性の前提を、国連がもう一歩、価値観の部分にまで視野を広げて言えるといいんですが……。それぞれ主権を持つ国家の集まりですから、なかなか難しいでしょうけど。
山本 国連でも、価値の問題の扱いは、なかなか難しいですね。「人間の尊厳」とか「本来の人間個人のあるべき権利」というか、いわゆる「人間らしい生活(を営める権利)」というものであれば、国連憲章にも明記されていますし、言うことはできると思います。人権の擁護、促進はまさしくそのような活動だと言えます。しかしそれを超えて、一つの教義みたいなものについて話すのは、非常に難しいだろうと思います。
内藤 今まで宗教間対話、文明間対話みたいな形での話し合いがありましたね。
山本 ええ、やっていました。イランが主導していました。むしろそういうところから、問題点や難しさを見ることはできると思うのですが。そういうものでも、いいのかもしれません。
価値観の強要が他者の尊厳を侵す可能性も
内藤 9・11の前になりますけれども、フランスのストラスブールの欧州評議会で、イスラームと西洋についての会議があって、そこで話をしました。
すでにイスラーム教徒の女性のかぶりものをめぐってヨーロッパで人権論争になっていた時で、私は基本的に「脱げと言うのはやめるべきだ」と言いました。「彼女たちにとって、ヒジャーブを着けることは、女性としての尊厳を保つことです。それを脱げと言ってしまうと、セクシュアル・ハラスメントになります。フランスは国家を挙げてセクハラをやるつもりですか?」と。
反応がすごかったですね。司会はルクセンブルクの大使だったのですが、「なんてことを言うんだ」という感じでした。パリ大学の先生は、東洋から来たおまえに何がわかる、という勢いでお怒りでした。
私は、「フランスが(革命を経て)そういう宗教色のない社会になったことによって、女性の人権も含めて自由というものを確立した、その歴史はよくわかっています。教会といかに闘ったかということもわかっています。しかし、違う価値の体系を持っている人たちに対してそれを強要すると、その人の尊厳を侵す可能性があるということを、なぜわからないのですか?」と言いました。会議は荒れましたね。
山本 荒れるでしょうね。
内藤 議長は天を仰いでいましたね。「日本から来て余計なことを言いやがって」と思われたのでしょう。しかしその思いは私、今でも変わりません。「かぶりたくない」という人にかぶらない自由は認めるべきですし、「かぶりたい」と言っている人には、かぶる自由を認めないといけない。
かぶったら「啓蒙されていない」のか? 「遅れている」のか? 彼女たちをそういう目で見てきたというのは、やはりイスラームというもの全体に対して、国際社会がそういう偏見の視線で見てきたということではないでしょうか。特に女性の問題については。