半年後の2018年12月に再びヌールたちに会いに行くと、その生活にはいくつもの変化が見られた。モハマドが支援団体の建設員の職を得たおかげで、生活の基盤が整いはじめていたのだ。部屋に入ると発電機につながれた扇風機があり、難民キャンプの蒸し暑さを和らげていた。
ヌールは前よりずいぶんと元気そうで、その日は化粧をしていた。深紅のアイシャドウと口紅が彼女の大きな瞳と褐色の肌にはえて、とてもきれいだ。体調はどうかと尋ねると、ヌールは「最近はよく眠れている」と答えた。
「アラカン(ラカイン州)ではいつ国軍兵士に襲われるかわからなくて、夜も眠れなかった。いまはその心配がないから、とてもリラックスできるの」
その日も昼食をごちそうになったが、前回よりも格段に味がよくなっていた。おいしいと伝えると、夫が働いているおかげで今日のカレーには干し魚を入れられたのだと嬉しそうにヌールは言った。定収入が得られるようになり、手に入る食材の種類も増えたのだろう。モハマドも難民キャンプでの生活に居心地のよさを感じているようだった。
「ここにいれば海外の団体が支援をしてくれるし、メディアも取材に来てくれる。君だって僕たちに会いに来られるけど、アラカンに戻ったらそれも難しくなるだろう」
この訪問の1ヵ月前の2018年11月、バングラデシュ政府はロヒンギャ難民の帰還事業を強行しようとしたが、帰還予定者が当日ひとりも姿を見せず、計画は中止に終わった。モハマドは故郷に対する心情をこう吐露した。
「アラカンを思い出さない日はないが、いま帰ってもまた国軍兵士に虐げられるだけだ。彼らが国際的な司法の場で制裁を受け、私たちが市民権を得られなければアラカンには戻れない。いまはまだ帰るときじゃない」
だが、この平穏な生活は長くは続かなかった。
半年後の2019年7月の訪問時、ヌールは甲状腺の病気を患い、喉に赤ん坊の拳ほどの腫瘍ができていた。手術が必要だが、その費用は6万タカ(約8万4000円)もかかると医者に言われたという。難民にとっては法外な額だが、これに追い打ちをかけるようにモハマドは失業していた。
もともと不安定な難民の生活は、些細な外的・内的変化に大きな影響を受ける。ヌールたちの生活基盤は脆くも崩れかけていた。帰り際に私もわずかばかりの寄付をしたが、ヌールが手術を受けられるか気がかりだった。
その後、難民キャンプの状況は悪化の一途をたどる。バングラデシュでは、膨大な数の難民を受け入れたことによる住環境の悪化などを理由に、ロヒンギャに対する風当たりが強くなっていた。2019年8月、バングラデシュ政府は再び帰還を推し進めようとしたが、またもや希望者が現れず、事業は頓挫した。
しびれを切らしたバングラデシュは、キャンプが人身取り引きやヤバと呼ばれるメタンフェタミン系の麻薬の密売組織の隠れ蓑になっているとして、統制を強化していく。
キャンプ内のインターネットは遮断され、難民へのSIMカードの販売が禁止された。祝宴や結婚式といった集会も制限され、キャンプの周りには鉄条網のついた柵が設けられた。移動の自由を失ったロヒンギャたちはそれまで生業にしていた日雇い労働の機会を失い、困窮していく。
2020年1月にキャンプを訪れたときには、ヌールやモハマドの心境は一変していた。モハマドはこう語った。
「かつて難民キャンプには自由があったが、いまはバングラデシュの締め付けが厳しい。家族を養うために働くこともできないし、治安が悪化しているせいで安心して暮らせない。ほんの1年前までキャンプには生きるために必要なものがそろっていたが、すべて消えた。いまはアラカンに帰りたくて仕方がない」
ミャンマー国軍兵士から性的暴行を受けた妻と夫の苦渋の5年間
ミャンマーのイスラム系少数民族ロヒンギャに対し、国軍が苛烈な武力弾圧を行ってからちょうど5年が経った。当時日本でも大きく報道されたこの迫害は数ヵ月にも及び、老若男女を問わず罪のない市民が無差別に殺され、女性たちは組織的にレイプされた。被害者たちは今も、難民キャンプで5年前の記憶に苦しんでいる。
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いまでも国軍兵士を殺したい