村上の”ホームラン確信バット投げ”への苦言

思えば、巨人に入りたての頃の松井は、とにかく苦労していた。前述のような強打者の通過儀礼としてのインコース攻めに遭い、左投手の外角への変化球にはバットにかすりもしない空振りばかり。プロの投手の制球力の凄さには恐れ入ったことだろう。

とくに松井は甲子園でその名を轟かせての巨人にドラフト1位での入団だった。凡人には想像もつかないほどの重圧の中でプレーしていたとも思う。

その点、同じ1位とはいえ村上は“外れ1位”。球団も巨人ではなく自由さ、アットホームさが売りのヤクルトだ。精神的にもどれだけ村上の方が楽だったかは、私自身が実際にヤクルトでプレーやコーチをしていただけにわかる。

だが、こうした技術面だけで、村上が松井を超えたというのには違和感を覚える。たしかに松井はレフトへの本塁打は少なく、ほとんどがセンターからライトだった。しかし打てなかったのではない。打たなかったのだ。

松井は当てただけのレフト前のヒットを望まず、ライトに引っ張ることにこだわった。それは強打者、4番打者のプライドによるものだ。それでいて日本で332本、メジャーでも175本の本塁打を残した。

精神面も2人には大きな差があると思う。例えば村上は、打った瞬間に本塁打とわかったとき、ゆっくりと一塁に向かう。そのとき、必ずといっていいほど右手に持っているバットを横にして、ポーンと一塁ベンチ方向に投げる。まるで映画の決めポーズのようだ。

だが、私に言わせればあれはいただけない。大事な商売道具を放り投げるとは何事かと思うし、そもそも相手へのリスペクトに欠けた行為ともいえるだろう。

昭和の考え方を押しつけるつもりはないが、少なくとも、松井があんな決めポーズをしていた記憶はない。時代が違うと言われればそれまでだが、そんな村上が「松井を超えた」と言われるのには、まだまだ賛同できない。

“村神様”だって? 十年早いわ。これはチームの大先輩だった私の、苦言と取ってもらえたらありがたい。

村上の三冠王のチャンスは打率次第ということになるが、よほどの技術的スランプに陥らない限り、可能性は高いと予想している。チームが優勝争いの渦中にあり、勝利優先で打席に邪念を持ち込まなくて済む。緊張感、集中力も持続するから、優勝争いの重圧は、むしろ好都合かも知れない。三冠王のチャンスなど、いつも訪れるものではない。狙えるときに狙うべきだ。

しかしその重圧の中で、今一度、かみしめて欲しいと思う。4番というもの、リーグを代表する打者というものの価値を。それとも、バットを投げてカッコいいと思っているようなまだ22歳の若者に、そうしたものを求めるのは酷だろうか。

構成/木村公一 写真/小池義弘