3度目の核攻撃のリスクも

では、もし日本が「核共有」に踏み切ったらどうだろう。日本の場合、航空自衛隊の操縦士が核弾頭をF35に塔載し、「敵国」に想定されている国に投下することになるが、はたして現実味のあるシナリオだろうか。ドイツ同様、私にはとても非現実的な軍事作戦に見える。

さらには自衛隊の基地に核兵器を保管すれば、その基地はまちがいなく仮想敵国のターゲットとなる。そのリスクがありながら、基地周辺の住民から「核共有」への同意を得ることは現実的な話なのだろうか。

日本は広島、長崎と2回も核攻撃を受け、その威力の凄まじさを知り抜いている。「核共有」を受け入れれば、米軍の核兵器が配備される基地とその周辺は3度目の核攻撃にさらされるリスクを負うことになる。その冷酷な現実を受容するだけのコンセンサスが得られるとはとても思えない。

ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は最新の報告書で今後、数年間で各国の保有する核兵器が削減どころか、むしろ増加すると予測し、「核戦争が現実味を増している」と警告している。にもかかわらず、「核共有」を支持する現実主義派はなぜ、核戦争の現実についての議論を拒否し続けるのだろう? 

その理由ははっきりしている。核保有国同士による核戦争ではどちらも勝つことができず、勝てない戦争を考えることは「現実主義派」の論理に合致しないからだ。また、抑止力を期待される核兵器が一部の独裁政治体制に対しては役目を果たさないことに気づいたこともあるだろう。

6月下旬、ウィーンで開かれた「核兵器禁止条約(NAT )第1回締約国会議」に、日本はついに参加しなかった。ロシアと対峙するNATOですら、ドイツ、ノルウェー、スェーデン、フィンランドといった国々がオブザーバーとして参加していることを考えれば、核兵器の全廃をめざすこうした国際会議に被爆国である日本の参加がないことは残念としか言いようがない。

東アジアも緊張が高まっている。日本国内でも軍事予算の倍増、「核共有」を含めた核保有を求める声は日増しに多くなるばかりだ。しかし、こうしたきな臭い状況だからこそ、緊張緩和につながる政策を想像できないものだろうか。

このままでは世界に広まる外交の軍事化、政治議論の軍事傾斜がエスカレートするばかりだ。こうした軍拡への流れを変えるために、「平和国家」日本だからこそできる役割を追及すべきことがあるのでないか。ドイツの地から日本に思いを馳せつつ、そう思い悩む日々を送っている。

文/サーラ・スヴェン  写真/AFLO