核は「使う前提」でこそ抑止になる

ウクライナ戦争の開始以来、ロシアのプーチン大統領は核兵器の使用も辞さない、と受けとれる発言を繰り返した。そのため、この戦争がエスカレートすれば、核戦争という最悪のシナリオも予想されると、国際関係の専門家らは警告している。

こうした状況を受け、日本では軍事予算の倍増や核武装をめぐる論議が激しさを増している。故・安倍晋三元首相が提唱し、にわかに関心が高まっている「核の共用」もそのひとつだ。核の共用とは、核兵器を保有していない国が、核保有国の核兵器を自国内に配備し、共同で運用すること。

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政治学における「現実主義派」は核の抑止力を評価する。国際社会は事実上、無政府主義に近く、核兵器のような十分な抑止力で自国の安全を確保するしかないというのが彼らの主張だ。

その一方で、軍縮を進め、各国の軍備をなるべく小さくすることで世界平和を守ろうという平和主義のアプローチがある。

だが、「現実主義派」に属する政治家や学者の多くは、こうした平和主義的なアプローチを理想主義で非現実的なものとして批判を強めている。とくにウクライナ戦争が始まってからは、プーチン大統領による「核の恫喝」もあって、「現実主義派」的なアプローチが力を持ちつつある。

とはいえ、「現実主義派」が主張するのは核抑止の効能のみで、核兵器は「あくまでも抑止の手段であって、実際に使用するものではない」というのが彼らの言い分だ。核保有すれば使用することもありうるという現実のリスクについて触れようとしないのは何とも不思議というしかない。

だが、使わないことが大前提だとすれば、核兵器は抑止力にならず、まったくもって意味をなさない。プーチン大統領の「恫喝」のように、「使う」ことを前提として保有するからこそ抑止となりえるわけで、核保有の是非を検討するなら、その使用の現実性についても論議するのが筋だろう。