考えない、感覚を大切にする
―水族表現家とは?
当たり前のことですが、私たちは陸上で生活しているので、海と言っても水面しか見えず、海の中はすごく遠い世界のように思われるでしょう。しかし私たちが生きるために必要な酸素も、水も、食べ物も、全て海があるからこそ存在しています。
海の中は決して遠い世界ではなく私たちは繋がっています。
私が「水族表現家」と名乗っているのは、水生生物たちと同じ水の部族、家族の一員として動植物はもちろん水の中で見える景色や、海そのものが持つ表情、彼らが伝えたいことをさまざまな方法で表現しているからです。
ある時は自分が被写体となり、ある時は自分で水の中を撮影する、またある時は講演会でお話しするなどさまざまな表現方法を用いています。
陸と海の橋渡し、架け橋として活動しています。
―潜っているときはどんな感じになるのでしょうか?
素潜りで水の中にいる時は、一番人間らしい「考える」ということは陸に置いていきます。
脳が体で一番酸素を消費することも理由の一つで、一息で水中にいる時にわざわざ、メールしないと!とか、今晩何食べよう?など考える必要ないと思いませんか?
自然世界は、考えてから行動では遅い世界です。どうしても考えの声の方が大きいので、それを横に置いておくことで、より微細な感覚が研ぎ澄まされます。
海中では海洋動物たちのほうが当然、泳ぎのスピードも速く、深く長く潜れますので、私を異物だと感じると、瞬時に逃げてしまいます。
しかし、相手が自分の仲間の一員、一緒に居ても嫌じゃない、と感じれば泳ぎもゆっくりになりますし、こちらが水面で呼吸しているのを水中から待っていることもあります。
自分が被写体の場合は、中に溶け込んでいく感じですね。そして、自分が撮影者の場合は、できる限り自分のフィルターを通さないスケルトンの状態で、相手が伝えたいこと、見せたいことを彼らの代わりにシャッターを押している感じです。
作品は、タイトルや説明は意図的につけていません。言葉があると、それを理解しようと頭で作品を見てしまいがちで、私はそれよりも、心で感じていただきたいので、見てくださるみなさんにゆだねます。誰一人として同じ人がいないように、感じ方も人それぞれですものね。
写真がモノクロ仕上げであるのも、私は自然派カメラマンではなく、生態系を伝えたいわけでもないので、カラーだとやはり一水中写真になってしまう。
私は、そこにある物語、質感、風景、など思いを馳せていただきたい理由から、そうしています。