黒人女性として声をあげた意味
アメリカでは長い間、人種差別が黒人アスリートの活躍を阻んでいた。女子テニス界も例外ではなかった。
1956年に全仏選手権女子シングルスで黒人選手として初優勝し、1957年と58年にウィンブルドン選手権と全米選手権の女子シングルスで連覇を果たしたアリシア・ギブソンは、1950年に初出場するまで全米選手権への参加を認められず、黒人選手向けのテニス協会が主催する試合にしか出場できなかった。
テニス界の「人種の壁」を破った後でさえ、彼女は遠征先で主催者のテニスクラブに歓迎されなかったり、ホテルへの宿泊を断られたりすることも多かった。
「人種の壁」がなくなった後も、テニスのように会員制クラブに所属したり専属コーチについたりしなければトップ選手になることが難しい種目では、活躍する黒人選手の数は依然として少ない。ギブソンの次に黒人女子選手がグランドスラムのタイトルを獲得したのは、40年以上も後の1999年のことである。この年の全米オープンで初優勝を飾った選手こそ、当時17歳のセリーナ・ウィリアムズであった。
姉のヴィーナスと女子テニス界を牽引してきたウィリアムズは、数少ない黒人女子トップ選手として、こうした二重基準によりコート上で不当に扱われるだけではなく、コートの外で黒人女性を貶めるようなステレオタイプの標的にされることも多かった。
姉妹をゴリラや男性になぞらえた人種差別・性差別的コメントは数え切れず、2014年にはロシアテニス協会会長が「ウィリアムズ兄弟」と発言し、WTAにより処分されている。ウィリアムズはそのたびに声を上げてきた。
大坂がウィリアムズを憧れの選手として敬愛する理由は、彼女が優れたテニス選手であることはもちろん、「白人主流のスポーツ」のなかで人種差別と性差別に毅然とした態度で立ち向かってきた黒人女性としての姿勢にもあるのだ。
2018年には多くを語らなかった大坂だが、それからわずか2年後の2020年、別人のように強い女性となって、BLMのメッセージを積極的に発信し始めた。
コロナ禍でWTA主催の試合は3月初旬から7月末まですべて中止となっていた。冒頭の声明に先立つ7月、『エスクァイア』誌に寄稿した署名入り記事によると、大坂はこの間、自分の人生で何が本当に大切かを考え、「もしテニスができないのなら、[世界に]影響を与えるために何ができるだろう?」と自問したという。
彼女は「行動を起こさずにいることは、もう終わりにしよう」と考えたと述べ、こう続けた。
「私の子どもたちの世代のためにこの世界をより良い場所にするには何ができるだろう? と、何度も自問しました。今こそ制度的人種主義と警察暴力に声を上げるときだと決意したのです」
次世代のために声を上げることにしたという大坂の決意は、彼女のロールモデルであるウィリアムズの姿勢そのものだった。