小説すばる連載スパイ×音楽小説『ラブカは静かに弓を持つ』(以下『ラブカ~』)が刊行されました。
著者の安壇美緒さんにとっては、スパイ、クラシック音楽、法律……とまったく新しい領域を切り開いた、飛躍の一作になりました。
刊行を記念して、同じ小説すばる新人賞のご出身である篠田節子さんとの対談が実現。
デビュー以降、豊かな題材と綿密な取材を通して人間の心に迫られてきた篠田さんですが、連載開始時から『ラブカ~』のアイデアに興味を持っていたそう。
お二人に作品の舞台裏と未知の世界を描くことについてお伺いします。
聞き手・構成/タカザワケンジ 撮影/大槻志穂
『ラブカ~』にはごまかしがない
――お二人はゆっくりお話しされるのは初めてだそうですね。
安壇 お目にかかるのは、小説すばる新人賞の授賞式の会場でご挨拶させていただいて以来です。「二作目、三作目を早く書いたほうがいい」と激励してくださって。具体的なアドバイスをいただいたことをよく覚えています。
篠田 新人作家の方にはいつもそう感じているんですよ。「生き残ってください」って。
安壇 先生はデビューの時に二作目、三作目をすでに用意されていたそうですね。
篠田 私の場合は小説教室に通っていて、たまたま編集者から指導を受けていたんですよ。この作品でデビューしましょうという話になったところで小説すばる新人賞を受賞したので、じゃあ、二作目はもともと出す予定だった出版社からと。稀有(けう)なケースですね。
安壇 すごいですね。私はようやくこの作品で三作目を出せました。
篠田 『ラブカは静かに弓を持つ』、面白かったです。スパイものと銘打たれているけど、007じゃありませんよね。音楽著作権を管理する「全著連(全日本音楽著作権連盟)」の職員が、団体の命令で係争中の音楽教室に生徒として潜入する。このアイデアはどこから思いつかれたんですか。
安壇 『小説すばる』の編集の方から、この作品のヒントになった裁判について「こういう事件があったんですが、知ってます?」と聞かれたんです。「この題材で小説を書いてみませんか」と。一作目の『天龍院亜希子の日記』が派遣会社の正社員の男性の話で、二作目の『金木犀とメテオラ』が北海道の女子校に転校してきた東京の子と地元の同級生の話。どちらもぜんぜん違うジャンルの小説で、三作目も違う方向性でいきたいと思っていました。そこにスパイものをご提案いただいて。自分からは書こうと思わないジャンルですし、スパイ映画が好きというわけでもなかったので、逆に面白いなと思いまして「ぜひ」と。
篠田 「男流作家」が書くスパイものというと、国際的な陰謀があって、アクションシーンがあって、心理戦があって、女がそこにからんできて、というお約束があるんだけど、そういうものとはぜんぜん違いますね。
団体から業務命令を受けて、職員として潜入調査を行う。音楽教室で普通の生徒を装って、著作権料が必要な楽曲使用の証拠を集めてこいと言われる。行ってみると、職員としての生活に感じていたストレスが発散されたり、内向的だった性格が少しずつ開かれていく。そのうち先生やほかの生徒たちを騙(だま)しているということに罪悪感を感じるようになってきて葛藤が起きる。実際の事件をなぞって書いたわけではまったくなくて、これこそ小説の醍醐味(だいごみ)だという作品になっていますよね。
安壇 ありがとうございます。そう言っていただけるととても嬉しいです。
篠田 安壇さんの小説って、ごまかしがないんですよ。「これを書いておけば読者は満足するだろう」みたいなお茶を濁すところがない。「こうなるだろうな」という安直な予想を裏切って、まさに息詰まるようなやり取りになるんですよね。実は今日、もう一度読み直してから来たんですけど、再読するとまた発見があります。
安壇 いや、もう、恐縮です。
縁がなかったクラシックの世界
篠田 『ラブカ~』を書く前に最後までプロットは考えてあったんですか。
安壇 第一部までは考えてありました。連載前に『小説すばる』の編集部にプロットを提出しないといけなかったので。音楽教室は楽しいよ編と、スパイはつらいよ編という二部構成にしようと考えて(笑)、第一部の楽しいよ編は音楽教室の先生や生徒との交流と、発表会へ向けて盛り上がっていく流れを書く。で、マックスまで楽しさが盛り上がったところで、第二部のつらいよ編はちょっとつらい展開にいこうと。さあ、そこからどうオチをつけようかって。書く前は正直何も考えていなかったんです。
篠田 書いていく流れで決めようっていう感じだったんですね。
安壇 そうですね。だから、実は第二部で先生の浅葉桜太郎(あさばおうたろう)がコンクールに挑戦するとは考えてなくて。
篠田 そうなんだ。重要なエピソードですよね。
安壇 偶然、「桜太郎」っていう名前にしたのが幸いして、「春生まれだからさ、ちょっと前に誕生日だったんだよ」というせりふを枕にして、二十代最後の挑戦をさせようってつなげていったんです。
篠田 書いているとアイデアが次々に出てきますよね。よく「書けない、書けない、アイデアが出ない」という話を作家志望の方から聞いたりしますけど「書いてりゃ出ますよ」って思うんです。「このエピソードいいわ、入れよう」みたいなことって、書いているから出てくるんですよね。そうすると、どんどん話が広がって収拾がつかなくなったり、あとで風呂敷をたたむのが大変なんですけど。
そうか、桜太郎先生がコンクールを受けるのは最初から決まっていたわけじゃなかったのね。
安壇 そうなんです。世界的なチェロ奏者の人が出てくるとか、ほかの可能性もいろいろ考えたんですけど、これ以上登場人物を増やしてもボリューム的に難しいとか、シンプルな流れにもっていくにはどうすればいいかとかいろいろ考えてああなりました。
篠田 あれで正解だと思います。桜太郎先生は留学経験もあって実力はあるけれど賞の受賞歴がない。たぶん、日本全国に山のように桜太郎先生のレベルの方がいるんでしょうね。奏者として活躍できるのはごく一部。それも必ずしも実力があるからとは限らない。クラシックの世界のつらいところだと思いますね。
安壇 安心しました。ほんとにそういう感じなんですね。
篠田 コンクールに通ったからといって仕事がどんどん来るかといったらそんなことはないし、自分でリサイタルをすれば持ち出しになる。オーケストラの団員になったとしても、お給料が安くて食べていけない、みたいな世界なんですよ。
安壇 実は最初に登場人物を考えた時に、一番難航したのが浅葉桜太郎なんです。音楽の世界をぜんぜん知らないので、浅葉のようなポジションの人がどんな感じなのかがわからなくて。
調べるにしては失礼な話になってきてしまうというか、「留学していて、かなり弾けるけどうだつが上がっていない人」みたいな人を探して話を聞きにいくわけにもいかないですよね。そもそも私の検索が悪かったのかもしれないんですが、インターネットでもそういう感じの人は出てこないし。確信は持てないけど、これでいってみようっていう感じで始めたんです。
篠田 作家として行き詰まらないための心得ですよね。自分に縁のない世界を調べて書くというのは。新人が書けなくなってしまう理由でよくあるのは、自分の身の回り、わかっていることだけで書いているから。知らない世界に飛び込んでいって、取材して、ストーリーを動かしていくって度胸がいることなんですよ。その世界を知る人に「こんなことあり得ない」って全否定されるかもしれないから。でも生半可にクラシックをかじっている私が読んだ限りですけど、『ラブカ〜』に関しては不自然なところが何一つなかったです。