タトゥーの彫り師が突然「医師法違反」だとされ、抗議した「タトゥー裁判」

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 なるほど。この本の中で亀石さんが実際関わられた事例として、タトゥーの彫り師さんの裁判を取り上げていますね。タトゥー、入れ墨文化は日本でも長い歴史があって、特に日本の入れ墨は装飾性や芸術性の面でも海外からもすごく評価されているし、そういったカルチャーは日本に今までずっとあった。

職人さんがいて、それで生計を立てて家族を養っていたけれど、それがある日突然、「医師法違反だ」と言われる。つまり、人体への侵襲性というか、針を刺すという行為がピンポイントで……

亀石 そうですね。一見、注射するのと同じですよね。針を人の皮膚に刺す。そうすると、「体液とか血液を介した感染症のおそれもあるから、医者じゃなきゃできない」というのが警察の言い分でした。

 ですよね。これまでずっとあったものを、突然「医師法違反だ」と言って取り締まる。それまで当たり前のように「なりわい」にし家族を養ってきて、誇りに思ってきた仕事が、ある日突然「違法です」と言われる、まさに「普通の人」でいられなくなっちゃうみたいな状態として、この問題が始まったわけですね?

亀石 そうですね。

 この本は4人の著者によって書かれていて、それぞれ文体が違うのが面白いんですが、亀石さんの章はすごくドキュメント的というか、まさにタトゥー訴訟の原告たちと一緒に歩んできた肉声が聞こえたり、顔が見えるような章で、すごくいい。良質なルポルタージュのような文体だと思って読みました。

亀石 ありがとうございます。

 他の方の章では、いかにも皆さんが想像する「弁護士さん」という感じの、理詰めで、文献を引きながら学術的に、「そもそも公共訴訟って何なんだろう」と、法的な位置づけを憲法も参照しながら書いたり、国際比較をしながら書いている章もあれば、ちょっと文芸的な雰囲気で読ませる章もあって。

亀石 書き手によって、文体が全然違いますよね。

 そうですね。で、裁判って、もちろん客観的な証拠に基づいて淡々と決まるのが理想ではあるけれど、やっぱり生身の人間である裁判官という個人に、ある種の判断をしてもらわなきゃいけないわけですから、理詰めももちろんのこと、共感してもらうことも必要で。

 そうですね。

 日本の裁判官はどうしても経歴の多様性が乏しいところがおありでしょうから、おそらく裁判官でタトゥーを入れていらっしゃる方はいないでしょうね。

でも、彫り師という職業はずっとあって、そこにプライドを持っていて、家族を養っている人がずっといたんだよ、ということを、裁判官に理解してもらわなきゃいけない。「全然、反社とかじゃないんだよ」ということを、知ってもらわなきゃいけない。

だから、客観的なデータや統計も徹底して出すし、かつ、やっぱりナラティブというか、実際、その方の生きざまとかもちゃんと伝えなきゃいけない。という意味で、これ本当に、「情理を尽くす」というか、情、エモーショナルなものと、理詰め、理屈の話、ロジックを全部駆使して裁判を闘われていますよね。

亀石 はい。

 この本自体がそういう本だなと思ったんです。その中で、亀石さんの章は「情パート」をすごく担っていて。

亀石 確かに、「エモーショナル担当」とか言われていました(笑)。

 まさに「エモーション=情」も「理」も、どっちも大事、というのがポイントで。非常に読ませるパートなので、ぜひ、お読みになる際は、タトゥー裁判のパートから読んでいただくと分かりやすいかなと私は思います。

亀石 ありがとうございます。

朱 でも、この章でも出てくるように、泣き寝入りもできなくはないし、彫り師さんたちにとっては、「罰金を納めて、一旦それでお目こぼしをしてもらう」みたいな発想もあり得なくはなかったわけですよね?

亀石 もちろん。そういう彫り師さんもいらっしゃいました。

 そうですよね。だって原告になるということは、本名や顔をさらしてやらなきゃいけない。それって、自分の利益のためだけを考えたらできない。とてもじゃないけど、「コスパ」が合うものじゃないですよね。

亀石 本当にそうです。 だから、私がこの相談を受けたときに話したのは「これ、本気で闘おうと思ったら4年も5年もかかりますよ」と。最高裁まで行くから時間もかかるし、その間ずっと「被告人」という立場に置かれるし、応援ばかりではなくて世間からの誹謗中傷も受けるだろうし。

それに、タトゥーって、やっぱり日本の社会では一般的には好ましくないとされていると思うんですよね。だから「バッシングもキツイものがあると思うし、お金もかかるし、そのお金をどうやって集めようとか、いろんな苦労があるけど、それをできますか?」と尋ねたんですよ。

そしたら、「自分のことだけだったらできないけど、自分が今やらなきゃ、これからの世代のみんなが困る」とおっしゃって。

その方もそうだし、原告になってくださった方は皆そうなんですけど、自分だけのことだったらたぶんできない。それこそ、コスパが合わない、というか。そういう使命感がないと、たぶんできないんですよ。それを決断してくれた方がいるからこそ、私たちも訴訟ができる。

 そうですよね。公共訴訟については、世間の先入観があるかもしれないので、まずはその点を確認していただきたいと思います。さっきの話のとおり、日本の場合は制度上、「原告」が必要で、しかも、それはたとえば「実際に不利益を被った」とか、「認められなかった」といった条件が要る。

たとえば、この本に出てくる『「結婚の自由をすべての人に」訴訟』、いわゆる「同性婚訴訟」もそうですね。

日本であれば、「戸籍上の性別が同じなら、婚姻制度を使えない」ということになってしまっていて、これは皆さん知っているわけですよね。でも、その原告になるためには、まず、同性同士が婚姻届を出さなきゃいけない。出して、「不受理」にされる、ということをやらなきゃいけない。不受理になることを分かっていて、でも、原告になるために婚姻届を出すんですよね。

亀石 そう。「不利益を被らないと原告になれない」というルールになっているからですね。だから「立候補年齢引き下げのための訴訟」の原告たちも、不受理になることを分かっていて、選挙管理委員会に立候補届を出しに行くんですよ。そうしないと原告になれないから、そのステップを踏んでいるんだけど、そのことですごくバッシングを受けたんですよね。

 そうですね。「どうせ不受理になると分かっているのに、窓口の手を煩わせるな」とか、「パフォーマンスとしてやってるんだろ?」みたいな。

亀石 そうそうそう。「業務妨害だ」みたいな。

 そう言ってくる人がいるわけですけど、でも、本当に考えてみていただきたいのは、「不受理になると分かっていますよ、でも、それしか訴訟にする方法がないんです」ということなんですよね。

ちなみに同性婚の原告の方は、この本で「『きっと受理されないんだろう』とわかっていました。それでも、婚姻届を書く時、私はうれしかったです。」と語っておられましたね。不受理になることはわかっているけど、出すという行為そのものが、「もしかしたら」と一瞬だけでも思えて、うれしかったんだと。その話に私は「あぁ人間だな……」と思いました。これは余談なんですけど……。

だから、こういう原告になる人たちは「迷惑をかけに行く」んじゃなくて、みんなを背負って、原告になりに行くんですよね。

亀石 そうですね。

 これってまさに、アメリカで人種差別を是正するための公民権運動の一つのきっかけになった、ローザ・パークス(*3)さんの話を思い出します。アフリカン・アメリカン、黒人女性ですが、当時、人種隔離政策がずっとアメリカで行われていて、バスの中の座席が、こっちは「白人用」、こっちが「黒人用」と決まっていた。その中で、ローザさんは白人用の席に座って、「そこをどけ!」と言われても、動かなかった。

これも、それこそ当時の公的なルールで決まっていることに反しているわけですよね。反して、しかもそこに居座る、命令にも違反することをやったわけです。

でも、「そもそもルールがおかしい」とか「そもそも社会の仕組みが間違っている」ということを言い立てるには、そうやってやるしかないわけです。まさにそうやって私たちはちょっとずつ平等とか、自由に関して、闘って、勝ち取ってきたりしているわけで。

だから「自分の利益のためにやっている」とか「迷惑をかけに行っている」とか「パフォーマンスだ」という話は、初手から筋が違う話だと思います。

*3 1955年、アメリカ・アラバマ州モンゴメリーで、公営バスの座席を白人客に譲るよう命じられた際にこれを拒否し、市の人種隔離条例違反容疑で逮捕された。これを機にモンゴメリー・バス・ボイコット運動が起こり、人種差別撤廃を求める公民権運動の大きな転機となった。

亀石 そうですね。誰かがそこまでして問題提起をしてくれて、初めて、「こういう問題があったのか」と世の中で気づく、ということもありますよね。「確かにそういう問題があったな」と「初めて可視化される」といいますか。

選挙の立候補年齢というものも、当たり前過ぎてあまり疑問に思っていなかったけど、訴訟が起こって初めて、「確かに18歳から投票できるのに、25歳や30歳にならないと立候補できないって、何でだろう?」と、まず気づきをもらえて、そこから賛成も反対もいろんな意見が出て、というふうに議論が始まった。そういうことも、この公共訴訟の役割として、すごくあるかなと思いますね。

 そうですね。