クラス数が少なく、受験が有利なんて説も……丙午の“あるある”

自己紹介やプロフィールに用いるなど、丙午であることを積極的に打ち出していたと語る脇浜教授。理由は非科学的な迷信への“アンチテーゼ”で、これはある程度、丙午世代に共通している印象があるそうだ。

京都産業大学現代社会学部現代社会学科・脇浜紀子教授(写真/本人提供)
京都産業大学現代社会学部現代社会学科・脇浜紀子教授(写真/本人提供)

「自己紹介では『丙午です!』と自虐みたいに使っていて、読売テレビ時代のプロフィールにも、自分から丙午だと書いていたと思います。やっぱり丙午って覚えてもらいやすいですし、プライドというかアイデンティティのような部分もあるんですよ。

結局、丙午の迷信って“女性は結婚して家庭を支える、男性の付属物”みたいな風潮の上にあったわけですよね。女性は結婚して幸せを得るものだっていうステレオタイプがあるから、『丙午に生まれた子どもが女の子だったら可哀想』と親たちは産まなかったわけで、馬鹿馬鹿しさの極地ですよ。でも、あのときの親世代にとっては、別に馬鹿馬鹿しいことではなかった。

そういったものに対するアンチテーゼから、あえて『私たちは丙午よ!』と名乗ることで、“昔のしがらみや迷信には囚われないんだ!”“そんな時代終わったでしょ?”と押し出すような、そういう気概に繋がっていた部分は、この世代には少なからずあるような気がします」(脇浜教授、以下同)

幼少期の脇浜教授(写真/本人提供)
幼少期の脇浜教授(写真/本人提供)

そのほか、丙午の“あるある”にはどんなものがあるのだろうか。

「数が少ないので、同い年と分かったときの親近感は、他の世代よりも強いと思います。学生時代でいうと、だいたい小中高と45人学級で15クラスくらいあって、私の代だけ他の学年よりクラスが少なかったですね。出生数からも、それが全国で起こっていたんだろうなと思います。

ニュースとか世間では、数が少ないぶん受験の倍率が低いなんてことも言われていました。実際、私が高校入試のときには『定員割れだったんじゃないの』なんて言われましたし、自分で競争が楽だと思ったことはありませんが、周りの話だと、もしかしたら楽な世代だったのかもしれません」

大学時代の就職活動に関しては、幸運にもバブル全盛期と重なっていたそう。丙午だけでなく前後の世代も該当することではあるが、企業側から旅行に招待される学生も多い超売り手市場だったそうだ。