巨大な力と鋭い牙を持つヒグマが狂犬病に感染したとしたら…

生き残った人々の証言も、ヒグマの異常性を裏付けている。ヒグマは躊躇なく人を攻撃し、逃げる者を執拗に追いかけたという。この地域では事件以前からヒグマの目撃情報が複数寄せられていたが、行政は有効な対策を講じていなかった。

結果として、安全管理を怠ったとして、当局の担当者に対し過失致死の容疑で刑事事件の捜査が開始された。これは、行政の怠慢が市民の命を奪った人災でもあるのだ。

さらに、このヒグマの異常な攻撃性の背景に、現地報道では専門家が「狂犬病」の可能性を指摘している。狂犬病ウイルスは、感染した動物の理性を奪い、凶暴性を極限まで高める。

もし、巨大な力と鋭い牙を持つヒグマが狂犬病に感染したとしたら、それはもはや野生動物ではない。痛みも恐怖も感じない、歩く殺戮機械と化す。サハリンの事件は、我々がヒグマという存在に対して抱いていた常識が、もはや通用しない時代の到来を告げている。

共生とは、人間の側が一方的に譲歩することではない

写真はイメージです
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サハリンの悲劇を、対岸の火事だと笑うことは誰にもできない。北海道とサハリンは、気候も植生も酷似しており、同じヒグマの亜種が生息している。サハリンで起きたことは、明日の北海道で起きても何ら不思議ではない。

遺体を土に埋めるという行動は、日本のヒグマでも確認されている。我々は、崖っぷちに立たされているのだ。

このような状況下で、我々は「自然との共生」という言葉の意味を、根本から問い直さなければならない。共生とは、人間の側が一方的に譲歩し、生活の安全を脅かされても耐え忍ぶことではない。それは単なる敗北であり、思考停止だ。

真の共生とは、明確な境界線を引くことにある。山はヒグマの領域、人の生活圏は人間の領域。この境界を侵し、人間の命に危険を及ぼす個体に対しては、断固たる措置を講じる。それこそが、最終的に人間とヒグマ、双方の不幸な衝突を最小限に抑える、唯一の現実的な道である。

しかし、この厳しい現実を直視することを妨げる、無責任な言説が後を絶たない。市街地に出没した危険なヒグマを駆除するたびに、決まって聞こえてくる「かわいそう」という声。その言葉は、一見すると優しさに満ちているように聞こえるかもしれない。

だが、それは都市の安全な場所から現場の危険を想像することなく発せられる、極めて傲慢で有害な偽善に過ぎない。