「キャプテンレコードのひな形って、実はヴァージン・レコードなんです」

1985年10月にキャプテンから発売されたウィラードのファーストアルバム『グッド・イブニング・ワンダフル・フィエンド』は、初回プレスの1万枚があっという間に売り切れ、トータルで2万枚もの売り上げを記録した。続けて12月に発売された有頂天のシングル『心の旅』も、インディーズとしては初めてオリコンチャートにランクインするという、目覚ましい売り上げを記録する。

キャプテンレコードの発案について尋ねると、関川はイギリスの巨大メディアカンパニーの名前を口にした。

「キャプテンレコードのひな形って、実はヴァージン・レコードなんです。私はそのころ、ヴァージンがどうやって成功したかという本を読んで、こんなことができるんだと思ったのが、キャプテン発足のきっかけなんですよ」

写真/Shutterstock
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イギリスの実業家リチャード・ブランソンは1966年、16歳のときにパブリックスクールを中退し、雑誌『スチューデント』を創刊。1971年には、趣味が昂じた中古レコードの通信販売で成功を収め、1972年、22歳にしてヴァージン・レコードを立ち上げた。

クラウトロックなど実験的でアート色の強いレコードをリリースしていた初期段階では経営難に陥るが、1977年、過激な楽曲が物議を醸し、複数のレコード会社から契約破棄されていたセックス・ピストルズと契約を締結。パンクムーブメントの拡大に伴って売り上げが増大し、経営難を脱した。

1980年代にはカルチャー・クラブなどを大ヒットさせて規模を一気に拡張、1984年には航空会社ヴァージン・アトランティック航空を設立する。その後も鉄道会社、ラジオ局、インターネット事業、携帯電話事業など業態を拡大し、現在では巨大な多国籍企業ヴァージン・グループを形成している。

2021年頃のリチャード・ブランソン(写真/Shutterstock)
2021年頃のリチャード・ブランソン(写真/Shutterstock)
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関川は1980年代当時、雑誌からスタートアップしてレコード会社を成功させ、どんどん成長していくヴァージンにシンパシーを感じ、お手本にしようと考えたのだ。

正確な記録はないが、恐らく東京ロッカーズのころの日本のインディーズレーベルは、レコードを数百枚単位でしかプレスできなかったはずだ。

それからわずか数年後、万単位で制作し、広い流通ルートも確保したキャプテンレコードの登場によって、日本のパンク&ニューウェーブ系インディーズシーンは、新しいフェーズに入ったのである。

文/佐藤誠二朗

いつも心にパンクを。Don’t trust under 50
佐藤誠二朗(著)
いつも心にパンクを。Don’t trust under 50
2025/8/26
1,980円(税込)
288ページ
ISBN: 978-4087881196

「卑屈に生きるなと教えてくれたのはパンクだった」――ブレイディみかこ(作家)

ラフィンノーズがソノシートをばらまき、NHKが「インディーズの襲来」を放送し、キャプテンレコードが大規模フリーギグをおこなった1985年から今年で40年。
KERA(有頂天)、チャーミー(ラフィンノーズ)、HIKAGE(ザ・スタークラブ)、ATSUSHI(ニューロティカ)、TAYLOW(the 原爆オナニーズ)ら、1980年代に熱狂を生んだブームを牽引し、還暦をすぎた今もインディーズ活動を続けるアーティストから、大貫憲章(DJ、音楽評論家)、平野悠(「ロフト」創設者)、関川誠(宝島社社長、元「宝島」編集長)など、ライブハウスやクラブ、メディアでシーンを支えた関係者まで、10代からパンクに大いなる影響を受けてきた、元「smart」編集長である著者・佐藤誠二朗が徹底取材。日本のパンク・インディーズ史と、なぜ彼らが今もステージに立ち続けることができるのかを問うカルチャーノンフィクション。本論をさらに面白く深く解読するための全11のコラムも収録。

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