ゴールまで500メートル
まっすぐ走っているつもりなのに体が傾き、右へ左へと蛇行する。意識ははっきりしていた。沿道の声援も聞こえる。「何があっても、タスキだけはつなぐ」。それしか頭になかった。
2008年1月2日、東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)で、順天堂大学3年だった小野裕幸さん(当時21歳)は、山登りの5区を走っていた。気持ちとは裏腹に、手足に全く力が入らない。
観客の悲鳴とともに路上に倒れた。途中棄権を示す「赤旗」が掲げられたことに気付かない。再び走ろうと立ち上がる。競技運営委員に行く手を遮られ、座り込んだ。
「もう終わりなんだ」。監督の仲村明さんに肩を抱かれて言われた。ようやく事態がのみ込めた。「とんでもないことをしてしまった」。順天堂大の連覇の夢が消えた。ゴールまで、わずか500メートルだった。
正月の国民的な風物詩となった箱根駅伝で、自分が悲劇を演じるなんて、想像すらしていなかった。小野さんは18位でタスキを受け、「少しでも順位を上げよう」と駆け出した。
担ったのは、全10区間のうち、標高874メートルまで駆け上がる5区。過酷なうえ、距離も23・4キロ(当時)と最長で、順位変動が激しかった。「5区を制する者は箱根を制する」と言われる最重要区間だった。
勾配のきつい坂を軽快に上っていく。「体が動いている」。手応え通り、6人を抜き去った。上りの最終盤の残り4キロ付近で、さらに前方の選手をとらえる。
その時だった。フッと全身の力が抜けた。人生で初めて味わう感覚。自分の体を制御できない。みるみる前の選手の背中が遠ざかった。「小野が離れたぞ」。他校の監督の声が響く。
最高地点を過ぎると、蛇行し始めた。駆け寄った監督から水を渡され、口に含んだ。「冷静になろう」と、立ち止まって屈伸しようとした。けいれんする脚は、反り返ってうまく曲がらない。「何としてもゴールまでいかなければ」
膝に力が入らず、下り坂で体を支えられない。前につんのめるように倒れ込んだ。「明らかにおかしい。異変が襲っています」。中継していた日本テレビのアナウンサーが叫ぶ。
「嘘だろ」。解説者としてスタジオにいたOBの今井正人さんは、言葉を失った。その前年、5区で新記録をたたき出し、順天堂大を優勝に導いて「山の神」と呼ばれた今井さん。目の前のモニターに映っていたのは、「区間賞を狙える」と期待していた後輩がへたり込む姿だった。
小野さんは震えながら立ち上がった。必死に足を前に運んだ。「歩いてもいいから、ゆっくり行こう」。監督が伴走しながら声をかける。20秒足らずで再び転倒した。
這ってでも進もうと思っていた。「まだやれます」と言ったが、監督の手が背中に触れた。自分がレースを終わらせたことを初めて悟る。史上9度目の途中棄権だった。
救急車で搬送された。手足は冷え切っていた。医師の診断はエネルギー不足による低血糖。それもそのはず、走る前に口にしたのは、おにぎり一つと栄養補給用のゼリーだけだったのだから。