基本の基本をおろそかにしない
東京箱根間往復大学駅伝競走、通称「箱根駅伝」は、今やお正月の風物詩として日本中の誰もが知っている大会であり、ビッグイベントだ。
しかし、私が高校生だった当時、関西在住の私にはあまりなじみがなく、私自身もそれほど興味をもっていなかった。
瀬古さんが勧誘してくれた際にたびたび、「関東には箱根駅伝がある」と話されていて、それで認識したくらいだ。
日本テレビ系列による生中継が始まったのは1987年の第63回大会から(私が中学3年生のとき)で、当時は今のようには箱根駅伝の人気は過熱していなかった。
初めて箱根駅伝を真剣に見たのも、高校3年生のときだった。早稲田大学への入学が決まってからだ。
受験前に競走部の寮を見学に行った際に、4年生で主将、さらにはチームの大エースだった池田克美さんにお会いしたことがある。
早稲田は前年度の箱根駅伝でシード権を落とし(当時は9位までに翌年のシード権が与えられた)、その年は予選会を4位で勝ち上がって、本大会の出場を決めていた。
池田さんは、その予選会で個人トップの活躍だった。
「君が来年入ってくる花田か。入れ替わりになるけど、俺たちがちゃんとシード権を獲っておくから心配するな。任せておけ!」
池田さんは、まだ箱根駅伝に予選会があることすら知らない私に、そんな言葉をかけてくれた。
そして、初めて見た箱根駅伝で、池田さんは早稲田のエースとして貫禄の走りを見せた。エース区間の2区を任された池田さんは、8位でタスキを受けると、前を走る選手を次々と抜き去った。
20キロを前に2位に浮上すると、先頭を走る山梨学院大学の留学生ジョセフ・オツオリ選手を猛然と追った。そんな走りを見て胸が熱くならないわけがなかった。
「これはすごい大会だ」
そう認識を改めるのには十分なインパクトだった。
池田さんは、区間賞こそオツオリ選手に譲ったものの、6人抜きの活躍で区間2位だった。
早稲田はその後順位を落としたが、9位に踏みとどまりシード校に返り咲いた。池田さんが私に宣言したとおりの結果になった。