被疑者が出頭。供述した証言の内容に…
しかし夜中から働いているとはいっても早上がりができる訳では無い、現場応援が終わったら速やかに自署へと戻り、本日の通常業務を行わなければならない。Оさんは本部や他署の鑑識官達に挨拶をして離脱することにした。
そして、挨拶回りをしているとカメラ担当をしていた鑑識がいたことから、先ほどは一体なんだったのかと軽い気持ちで尋ねてみた。
「ああ、あの時さ、О君の後ろあたりに女の人が出て来たんだよ。あの家に住んでいる人だったのかな?だから、おーい!その人をどけてくれ!って叫んだんだけど、О君が出てきたら引っ込んじゃったんだ、だから特に問題はなかったよ」
笑いながらそう話すカメラ担当の鑑識官。
納得がいかない。
あの時は周囲にはかなり気を配っていたし、人なんて絶対にいなかったはずである。
ふと──あの素足が頭に浮かんできた。
疲労感と一仕事終えた充実感ですっかり忘れていたが、あの時見た素足で歩く人物が、今自分の真後ろに立っているような感覚に包まれたOさん。
「あーそうだったんですね、すみません気が付かなかったです」
適当な愛想笑いと返事をして、逃げ出すように現場を離れたのだった。
暫くして、本件被疑者が警察署に出頭してきて逮捕されたのだとOさんは聞いた。
当初は何も思わなかったのだが、取り調べを進める中で、被疑者が少し変な供述をしていたらしいという事を知り、その内容が、現場であの体験をしたОさんにとってはあまりにも不気味なものに感じた。
被疑者の供述した内容の一部を下記の通り抜粋する。
お婆さんを撥ねてしまい、慌てて停車した。
恐る恐る外に出ると、テールランプの赤い光に照らされながらお婆さんが痙攣を起こして手足をバタつかせていた。
頭がパニックになり、怖くて動けずにいたところ……すぐ近くに女の人が立っていることに気付いた。
まっすぐにこちらを見つめながら、何も言わずに自分に駆け寄ってきた。
靴も履かずに素足だった。
思わず逃げ出してしまったが……付近の住民か、お婆さんの家族なのかは知らないがあの女に見られたことは間違いない、どうせナンバーも見られているだろうし、捕まるのは時間の問題かもしれない。
自殺も考えたが怖くてできなかった。諦めて出頭することにした。
このように取り調べで供述したそうだ。
これに驚いたのは管轄警察署の交通課員達である。
警察では重要事件が発生した際には〝地取り〞と呼ばれる聞き込み捜査を広範囲で徹底的に行う。科学捜査の時代にはなったものの、やはり地道に近隣住民からの僅かな証言をかき集めていく地取り捜査の重要性は損なわれていない。
もちろんこの事件当日も署員総出で近隣一帯の地取りをくまなく行っていたのだが、事故発生時の目撃者などいなかったのだ。
しかし、被疑者の言う〝事故現場〞にいた女が実在するのであれば、それは大きな証言となる。
その女性を捜すべく、交通課員たちは再度片っ端から周辺の住民に聞いて回ったそうだが、結局、被疑者が見たという素足の女を見つけることはできなかった。
現在、Оさんは警察を一身上の都合で退職し一般企業に勤めている。
当時何故か同僚たちにこの事を話せず、酒の席で思い切って話そうとしたことも何度もあったのだが、なぜかその度に言葉に詰まってしまったそうだ。
今は事件や事故、人の死とは無縁の生活を送るようになって、やっと吐き出せるような気持ちになったのだと言う。
自分自身が見たものが絶対に幽霊だとは思っていないが、絶対に勘違いや錯覚だと言い切れない気持ちもあり、思い出すたびに、生虫が懐に入ったような感覚になる、不思議で奇妙な警察官時代の話だそうだ。
文/藍峯ジュン