福島から高橋優太が、千葉から嘉陽快宗が来た

かにや旅館が現在のような成果を実らせる過程には、小さな出会いの積み重ねがあった。

いまはすっかり人気力士になっている白熊こと高橋優太が福島県須賀川市から新潟県糸魚川市の能生に来たのも、いわば一瞬の出来事がきっかけだった。

2011年12月、田海(とうみ)哲也総監督は両国国技館を訪れていた。アマチュア横綱を決める全日本相撲選手権大会(以下、全日本選手権)と同じ日、同じ土俵で、全日本小学生相撲優勝大会も開催される。哲也は有望な小学生と出会い、能生に来るよう促す目的で片道5時間、車を走らせて来ていた。

全国から小学生横綱を目指す少年たちが顔を紅潮させて代わる代わる土俵に上がった。小学生ながらすでに180センチを超える大きな選手もたくさんいる。彼らには、当然のように全国からスカウトを目的に来ている中学の指導者たちの熱い眼差しが集中する。

取り組みが始まって間もない序盤戦で、運命の出会いは起きた。

哲也の目に留まったのは、圧勝した選手ではなかった。二回戦で早々に負けた一人の少年が、控え室に続く通路で悔しさをこらえきれず、泣いていた。その背中に哲也は感じるものがあった。哲也は土俵上で次々に展開される勝負から離れ、その少年を追った。そして、やわらかく声をかけた。

「うちに来て強くならないか」

冬になれば雪掘りが日課
冬になれば雪掘りが日課
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その時のことを、優太も覚えている。大学時代、優太が教えてくれた。

「二回戦くらいで負けてしまって、悔しくて泣いている時、『うちで強くならないか』と声をかけられたんです。それが誰だったのか、泣いていたのでよく覚えていないのですが、後でもらった名刺を見たら、『海洋高校相撲部総監督田海哲也』とありました」
 
哲也の一言は、悔しさの底に沈んでいた優太少年の心に深く響いた。
 
優太は、(小学校を卒業したら、能生中学に行く)と決めた。能生がどんなところか、福島からどれだけ時間がかかるのか、どう行くのかもさっぱりわからない。だが、能生に行けば強くなれる、強くなれるなら行きたい、その一心だった。

普段は口数の少ない優太だが、自分の意志ははっきり持っている少年だった。

「おじいちゃんのために、大相撲で活躍する力士になりたいんです」
 
やはり大学時代、優太は強い決意を話してくれた。卒業を前に、進路をどうするか悩んでいる時期だ。大学の恩師は、痛風などを抱え、なかなかコンスタントに土俵に立てない優太を案じ、実業団の方が賢明じゃないかと、好条件の就職先を紹介してくれた。

だが、大相撲への断ちがたい思いが優太の中にあった。優太を応援してくれるおじいちゃんの顔がいつも優太の心の中にあった。

「相撲が大好きで、僕が勝つことをすごく楽しみにしてくれている。60代になったいまも、いつか国技館に応援に行く時のためにと、トラックの運転手の仕事をしてお金を貯めているんです。そのおじいちゃんを、お相撲さんになって喜ばせたい」

それが、優太が12歳にして親元を離れ、見知らぬ能生という土地に向かう強い動機だった。
 
同じ年、千葉県からは嘉陽快宗がやって来た。嘉陽入学の物語は、第六章で綴ることにする。