中途半端を許容する

── 「被写体の幸福」は収録作のなかでは初出が最も古い作品です。日本に留学している台湾人女性と彼女の気持ちを理解できない日本人の写真家のすれ違う恋愛を描いた同作は、二〇一六年に刊行された『GRANTA JAPAN with 早稲田文学03』に掲載されました。今回、この小説を読み直して何を感じましたか?

 これは、日本人男性の写真家が自分の見たいものしか見ようとしていない姿を描くことで、日本と台湾、そして、男性と女性の不均衡な関係を表現してみようと意気込んで書いた短編です。『文学2017』(日本文藝家協会)にも収録していただいたものですが、八年を経て改めて読み返すと、主人公をまったく理解しない写真家の姿を描くのに躍起になりすぎて、主人公が写真家に心惹かれる過程をおろそかにしていると感じたため、今回、そのあたりを大幅に加筆・修正しました。

── この小説では思希しきという台湾人の女性が被写体となり、恋人の日本人が彼女を写真に撮りますよね。つまり、見られる思希と見る写真家という非対称性があります。被写体というモチーフを選んだのはなぜだったのでしょう?

 実はこの作品は日本統治時代の作家・呂赫若りょかくじゃくが書いた日本語の短編「玉蘭花ぎょくらんか」へのオマージュとして書いたものなのです。「玉蘭花」は台湾人の主人公が、まだ子どもだった日本統治時代に親しく付き合った日本人の撮った写真を戦後、見返しながら当時のことを思い出していくという小説です。当然、撮影者の日本人はそこには写っていない。ただ、彼に見られていたという事実だけが写真というかたちで残る。そんな小説の作り方が面白くて、二〇一六年の時点で私が「玉蘭花」を書くとしたらどうなるだろうと思いながら構想しました。

── なるほど。被写体というのは日本統治時代に日本人から眼差しを向けられた台湾人のことでもあるわけですね。思希はかつて日本人だった彼らと戦後生まれの自分を結ぶ紐帯ちゅうたいを確かめようとしているのだけど、写真家にはそれがわからない。だから苛立ちながら自分の価値観を押し付けようとする。最後に彼が言い放つ「わめくなよ!」はなかなか酷い。

 彼は思希の心情を理解せずに彼女を意のままにしようとするんですよね。『魯肉飯ロバプンのさえずり』という長編小説でも私は、日本人男性と台湾人女性という夫婦を書きましたが、この写真家と『魯肉飯のさえずり』の夫・柏木は、恋人や妻を「可愛い」と言いながら彼女たちの内面や本心には一切関心がない。写真家や柏木にとっての「可愛い」とは、自らを決して脅かさない存在です。そしてこれは、宗主国の人間が植民地の現地人に、要するに、支配者が被支配者に向ける眼差しと酷似しています。

── 一方で「君の代と国々の歌」に登場する夫・立樹たつきは柔軟な理解力がある日本人の男性ですね。写真家や柏木の対極にいるような男性で、台湾人の妻である瑛樹えいじゅをありのままに受け入れる彼の優しさはこの短編集の希望のように見えました。

 日本で育った語り手の瑛樹は台湾に帰っても、親戚から「おまえは台湾人というよりは日本人だもんな」と言われる境遇です。日本人としても台湾人としても中途半端な自分自身を持て余していた瑛樹でしたが、立樹の方は、彼女のそんないびつさを含めて理解し、自分が日本人であるからというだけで、そうでない瑛樹より優れているとは考えません。立樹は、台湾人である瑛樹の家族や親戚のことも尊重していて、瑛樹との間にできた自分の娘にも中国語を教えるし、日本以外にもルーツがあるのは豊かなことなのだと伝える父親です。そんな立樹と長くいるうちに瑛樹は、日本人としても台湾人としても半端なせいでいびつだと思わされていた自分自身を、なかなか面白い、と受け入れるに至るのです。

── しかし逆に言えば、その半端さを欠落だとみなす世界に私たちは生きているということですよね。

 残念ながら、そうなんですよね。自分は自分。それでいいはずなのに、あらゆる規範から少しズレただけで、自分は劣っていると思わされる。考えてみれば私の小説は、規範から否応なくズレている人たちが、ふつうでない、とか、いびつだとか感じさせられてきた自分自身を、いや、このズレこそが尊ぶべき私自身だと発見する過程を辿るものばかりなのです。

── 今回の短編集のなかには「羨ましい」という言葉が繰り返し出てきます。この言葉は瑛樹や「二匹の虎」の月瑜のような自分で選んだわけじゃない境遇を生きた人間に向けられると暴力的に見える一方、彼女たちが自分の人生を肯定するための端緒にもなり得ますね。

 鋭いご指摘、感動しています。まさに私は、育った国でずっと外国人扱いされ続けていることや、台湾人なのに中国語ではなく日本語しかうまく話せないことなど、当人にとってはコンプレックスの種だったことを、他の人が何の気なしに羨ましがる場面を描くことで、自分の小説の主人公たちに、それは必ずしも嘆かわしいことではなく、見方を変えればむしろ羨望に値するのだと気づかせたかった気がします。

── 「羨ましい」という言葉を放つ人には一つの文化の内側に閉じ込められている感覚があるんだと思います。『恋恋往時』の主人公たちはそこから自由になれているように見えるから彼らに羨望されるんでしょうね。

 そうだと思います。だからそれは誇っていいことなんだよと気づいてもらいたかったんです。
「ふつう」じゃない人たちが報われる世界を。

── ここまでの三作品は戦争経験者の孫世代が視点人物でした。最後の「恋恋往時」は「二匹の虎」にも駄菓子屋の店主として登場した來春ライチュンという七十代の女性が語り手です。なぜ月瑜や思希、瑛樹とは違う世代の人物を最後に描いたのでしょうか?

 実は編集者さんからの提案だったんです。「二匹の虎」を書いたときに編集部で「あの駄菓子屋さんのおばさん、気になる存在だね」って話題になったみたいで。言われてみたら私も、駄菓子屋の彼女の半生を想像するうちに彼女のことが、どんどん好きになったんです(笑)。月瑜の祖母の葬儀に父親と共に現れた彼女が月瑜の目に美しく見えたのなら、白髪の手入れもせず駄菓子屋の軒先にいた頃がどん底だとしても、その前と後を、彼女は懸命に生きたはずだと。

── 台湾で生まれ育った來春は、置かれた境遇も世代も温さんとは異なる人物ですよね。彼女を小説のなかで描くにあたって何を考えましたか?

 私はこれまでずっと、社会のなかで「ふつう」と見なされずに、自分をいびつだと思わされてきた人たちが、あるがままの自分を受け入れる勇気を得て、報われる瞬間を書きたいと思ってきました。
「恋恋往時」ではそのことを日本と台湾のナショナルな問題のなかでではなく、父親から來春という名を与えられた一人の台湾人女性の半生を通して表現してみたかったのです。
 ただ、私が書くなら、やっぱり日本や日本語との関係も含めて書きたい。それで日本人との結婚と離婚を経験し、今はアメリカで暮らしている姪の月敏ユエミンを登場させました。月敏の名付け親は祖父で、つまり同じ人物から來春、月敏と名付けられた伯母と姪の小説にしたかったのです。

── 來春は若い頃にあちこちから見合い相手を紹介されたと言います。作中では「あの頃はそれがふつうだった」と書かれていますが、そんな抑圧的な世界で葛藤し続けた彼女に一つ下の世代の姪が寄り添おうとする優しさがあたたかく光って見えました。でも考えてみればその優しさは温さんの小説にいつも込められているものですよね。それが必ずあるから、温さんの小説はどんなときも読者を励ましてくれるんだと思います。

 ありがとうございます。私自身が、あたたかく光る優しさをいつも求めていて、小説に限らず、それを与えてくれる物語に救われる日々を送っているので、私の小説のことを、そのようにおっしゃってもらえると、まさに報われる心地がします。
 非常に心が痛むけれど、「ふつう」でないとレッテルを貼られがちな人たちにとっては言うまでもなく、「ふつう」であることにかろうじてしがみついている人々にとっても、この世界はますます過酷になっているなと思います。だからこそ私は、ちょっとぐらい「ふつう」じゃなくても大丈夫な場所を、せめて自分が書く小説のなかに保ちたいのです。

恋恋往時
温又柔
恋恋往時
2025年5月26日発売
1,980円(税込)
四六判/232ページ
ISBN: 978-4-08-771892-8

自分にないものを思って憂うのではなく、
他のひとにはなくて、
私だけが持っているらしいもののことを考えよう――。

国境と言語を跨いで射し込む光に照らされた、日本と台湾、4つの物語。

――これからあたしたちは、飛機に乗ってパパのところに行くのよ。
幼い頃、父と一緒に暮らすため、母と共に台湾から日本へ旅立った「私」。
四十年が経ち、祖母の葬儀に出席するため台湾に向かう「私」の心に蘇るのは、
かつて耳にした台湾語と懐かしい家の光景、亡き母の朗らかな歌声だった。(「二匹の虎」)

表題作「恋恋往時」や姉妹編「二匹の虎」をはじめ、
しなやかな生のありようを描いた4作を載録する作品集。

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