「宇崎さんの曲を歌ってみたい」
ホリプロダクションの傘下にある音楽制作会社、東京音楽出版の原盤制作ディレクターとして、モップスや井上陽水を手掛けていた川瀬泰雄が新たにスタッフに加わったのは、山口百恵の3枚目のシングル『禁じられた遊び』(1973年11月)からだった。
その後、5枚目の『ひと夏の経験』(1974年6月)で、シングルチャート初のベスト10入りを果たすと、7枚目の『冬の色で』(1974年12月)で遂にNo.1を獲得した。
ところが一度ピークを極めると、それまでの路線に少しずつ閉塞感のようなものが立ち込めて、新しい方向性を打ち出す必要が出てくる。スタッフの間で、ニューミュージックやロック系のアーティストに楽曲を依頼することが検討され始めた。
候補に挙がったのは、井上陽水や矢沢永吉、中島みゆきらであったという。
そんなとき、川瀬は山口百恵本人から、「宇崎さんの曲を歌ってみたい」と聞かされる。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのロッカバラード『涙のシークレット・ラヴ』を聞いて、鳥肌が立ったと言うのだ。
当時は、アイドル自身が作家についての希望を述べることはもちろん、スタッフがその意見を受け入れて楽曲づくりを依頼することなど、普通では起こりえないことであった。
だが中学生でデビューしてから2年半、歌手として信じられないほどの表現力を身につけていった山口百恵に対して、制作スタッフたちは「明確な意志を持つアーティスト」として、対等に接するようになっていく。
一方、電話で依頼を受けた宇崎は、驚きと共に戸惑いもあった。
反体制のイメージで売れたロックミュージシャンが、オーディション番組からデビューした「花の中三トリオ」の一人であるアイドル歌手に曲を提供する。当時は結びつくはずもない相反する世界観だったからだ。
しかし、宇崎はあることに気づく。