ネット怪談と田舎と民俗学
この問題意識を引き継いで、小説家の澤村伊智はそうした作品について「「結局それって田舎をバカにしてんじゃないの?」という。感度が高い人ほど、たとえば横溝映画が全盛期だった70年代とは違って、異文化を恐怖の対象として扱う作品を無邪気に楽しんではいられないという意識を持ち始めている」と指摘している。
このような視点から犬鳴村を研究した鳥飼かおるは、犬鳴峠やその近辺をめぐるさまざまな否定的イメージをいくつも取り出している。
たとえば筑豊炭鉱の過酷な労働から逃げてきた人々の場所としての山中や、より広い意味で山に住む人々(「サンカ」「山人」など)への偏見などである。後者については、戦前の柳田國男らの民俗学が、山の人々を「文明社会の私たち」と対比させながら分析していたことも、鳥飼は指摘している。
そもそも田舎の「遅れた」民俗を誰よりも綿密に調査して世間に公表してきたのは民俗学者たちであったし、都会の「進んだ」人々は民俗学の研究成果によって風習や物語を知ることができた。あるいは民俗学者自身が、場合によっては「遅れた」民俗の近代化に取り組むこともあった。
それ自体は田舎の人々の生活改善を目指した運動だったのだが、彼らの仕事は、現代社会とは相容れない民俗の存在を、そういう枠組みのなかで紹介するものともなった。
日本民俗学のはじまりとも言われる(言われないこともある)『遠野物語』(1910)の序文で、かつて柳田は「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と言い放ち、さまざまな伝説・怪談を都会の人々に向けて再話した。
しかし、スクリーンの手前という安全圏にいる二一世紀の平地人は、すでに「戦慄」をエンターテインメントとして楽しむことに慣れきってしまっている(※2)。
もしかすると、1990年代以降のフェミニスト映画論がホラー映画に「ジェンダーの二元論や男性中心主義、異性愛主義といった既存の性の規範を揺るがし、女性観客を力づけるポジティヴな可能性」を見出してきたような、ある種クィアな批評を田舎ものに試みることはできるかもしれない。
たとえば『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』では、田舎の因習に見えたものが、実際には近代化の過程で生じた歪みとして描かれている。因習系のネット怪談に対しては、読み手である私たちが、因習を単に「私たちとは無関係に過去から続く伝統」と捉えずに、近代社会との絡まり合いのなかで生まれたものと見れば(たとえばコトリバコならば、終わることのない差別や偏見)、そうした批評は可能かもしれない。
※1 ニュー速VIP版で2010年5月28日に投稿されたアガリビトという話は、2010年代の田舎もので珍しく今も知名度がある(とはいえ2010年のものだが)。「アガリビト」とは、ある地方で、人間が山に入っていき、完全に社会性も文化も喪失した状態のことで、地元では神様として信仰されているという。山に入っていった人間が妖怪になるという話は日本全国にあるが、「アガリビト」という名称は記録されていない。
※2 吉田 2024a の第6章「汲めども尽きぬ「民俗ホラー」という土壌」において、民俗学者の飯倉義之とともに、澤村伊智がこのあたりを批判的に語っているのは注目できる。
#1 2ちゃん発“ネット怪談”の金字塔「きさらぎ駅」が提示した新しい恐怖の形 「未完成のまま開かれていて…」 はこちら
文/廣田龍平