信頼のおける友人であり続けた「ストーンズ第6のメンバー」
時が経つにつれて、それは正しい判断だったことが証明された。ステュの心は大きかった。
それからピアニストとしてレコーディングとツアーで行動をともにし、ステュはロードマネージャーとして一緒に働いた。
そしていつしか「ストーンズ第6のメンバー」とも言われるようになっていく。
必要な時には優れたピアノ演奏をしてもらっただけでなく、人気のバンドメンバーなら誰もが欲しいと願う役割、すなわち信頼のおける友人であり続けた。
ステュはストーンズが大物になってからも、常に歯に衣を着せることなく率直な物言いをした。メンバーの誰に対しても、ステュは自分の意見を真っ直ぐにぶつけることができた。
その言動の多くは、バンド全体とメンバー個人にいつも前向きな影響を与え、時にはメンバー間の人間関係の修復に努めたりと、ステュは縁の下でストーンズに偉大な貢献を果たしていたのだ。
また、ストーンズが最初の成功を収めた後で、新たな方向に進むためにオリジナル曲を書くようになった際は、ステュはしばらくの間は認めようとしなかった。
キースとミックが初めて曲を完成させたとき(しかも甘いバラードだった)、二人はメンバーの顔を思い浮かべてこう想像したという。
「失せろ、二度と戻ってくるな」
その台詞は間違いなく、ステュの口から真っ先に飛び出てきたはずだった。なお、キースの自叙伝『ライフ』には、昔からいつも語っているこんな言葉が書いてある。
「俺は今もステュのために働いている。俺に言わせれば、ザ・ローリング・ストーンズは、あくまでステュのバンドなんだ」
ステュは、音楽面でも一切ブレることはなかった。彼の言葉でいうところの「チャイニーズ」、つまりマイナー・コードは弾こうとしなかったという。
伝統的なリズム&ブルースか、ブギウギ形式以外のものは全てお断りだった。
ステュは、とにかく自分がやりたくない曲は絶対に演奏しなかった。だからキースとミックは、ステュにはいつも一目置いていた。
彼がやりたくないものやるためには、別の人間を呼んで来なければならい。そのおかげでストーンズには長きにわたって、何名かの素晴らしいピアノ奏者がレコーディングやライブに参加した。
ニッキー・ホプキンスを筆頭に、ジャック・ニッチェ、ビリー・プレストン、チャック・リーヴェル、そしてフェイセスのイアン・マクレガンと、最高の人材が参加した。
いずれも独自のスタイルを有するその道のスペシャリストで、異なるタイプのピアニストが加わったことで、ストーンズは音楽の幅を広げられたのである。