『チンギス紀』 文庫化
北方謙三
全17巻・毎月連続刊行! 

撮影=長濱 治
撮影=長濱 治
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モンゴルの英雄チンギス・カンの波瀾の生涯を描いた北方謙三さんの『チンギス紀』(全17巻)が、ついに集英社文庫に登場! 10月刊の『チンギス紀 一 火眼』を皮切りに、以後毎月刊行されます。これを記念して、タカザワケンジさんに本シリーズの書評をご寄稿いただきました。また、累計1160万部突破の「大水滸伝」シリーズも一挙ご紹介。この度ドラマ化が決定した『水滸伝』(全19巻)をはじめとする壮大な歴史巨編にも、ぜひご注目ください!

『チンギス紀』を読む

 草原を駆けていた。
『チンギス紀』全十七巻の印象である。
 むろんチンギス・カンが手に入れた領土は草原に限らない。しかし思い出されるのはどこまでも広がる草原。草原の男たちが馬を走らせ、命のやりとりをするその姿である。
 十七巻は長い、と思うかもしれない。しかし読み終えてみれば、この長さでしか読めない世界だった。十三歳だったテムジンが、やがて草原を統一し、チンギス・カンと名乗る。さらに南の金国、西のホラズム・シャー国へと版図を広げていく。世界史に大書されるカン(王)の一代記にふさわしいボリュームだ。

 チンギス・カンとは何者か。なぜあれほど巨大な国をつくることができたのか。
 体格に恵まれ、武術に長けた少年時代。弟殺しの汚名を背負ったまま出奔し、砂漠を越えて大同府へ。馬車を操りながら「史記本紀」を音読し、歴史を知り、国家とは何かを考える。歴史に名を残した多くの青年たちと同じように、テムジンもまた苦難の道を歩きながら自身の宿命と向かい合っていった。
 主人公のチンギスに視点を固定し、その生涯を描くこともできただろう。しかし、作者の北方謙三はそうはしなかった。『チンギス紀』は時にチンギスから離れ、チンギスの好敵手たち、やがてチンギスに敗れる運命の者たちも描いているのだ。
 ある男は戦士でもあった妻とともに草原をあとにし、南宋に逃れる。妻には商才があり、交易で成功し商館を構える。二人はかつての部下の遺児を引き取り、一人前の男に育てあげることに精を出す。

 また別の男は単身、森に移り住む。ダルドと名付けた狼を相棒に隠遁生活に入り、時折、狩人と語らい、自分の跡を継いだ族長の訪問を受ける。
 敗軍の将としての痛みを引き受けながら、二度とは草原に戻ることのない男たち。彼らは、もしもチンギスが敗れていたら、こう生きていたかもしれない「もう一人のチンギス」でもある。
 チンギスの周りにいる人間たちのドラマももちろん描かれている。テムジンが十三歳のときに出会った、当時十歳のボオルチュは生涯を通じてチンギスの片腕となり、戦に明け暮れるチンギスに代わって民政に腕を振るう。母のホエルン、妻のボルテは孤児たちを一人前に育てる。チンギスの兄弟たち、子供たちは将軍として戦場を駆けめぐり、やがて孫の世代までが活躍するようになる。それだけの時間が物語の中にゆったりと流れていくのだ。

 舞台は戦場だけではない。交易の道を延ばし、兵站を切らさぬよう尽力した者もいる。地図づくりに才を発揮した者、工兵隊を率いる者、負傷者を治療する医師。鳩を使った通信網を整備する者や、諜報活動に従事する狗眼 ( くがん ) なる者たちも登場する。
 チンギスは彼らを惹きつけ、その能力を見極めることで偉業を成し遂げた。では味方にとって、敵にとって、チンギス・カンとはどのような存在なのか。
「殿は、どこかいい加減さ。そのいい加減さの中に、苦しいことも悲しいことも、吸いこまれていく」(チンギス軍の遊軍、雷光隊を率いるムカリ 十巻『星芒』)
「チンギス・カンは化けものであり、ただの男でもある、と私は思っている。わが人生で出会った、最も印象深い男だ」(ホラズム・シャー国のトルケン太后 十五巻『子午』)
 

 チンギス自身の内省ももちろんある。戦に明け暮れる生活の中でふとこう思う。
「男の人生とは、戦だけなのか。ふと考えてみる。定かな思いが浮かんでくることはなく、漠然と闇に放り出されたような気分になるだけだった」(八巻『杳冥』)
 やがて巻を追うごとにチンギスの心に「死」の気配が濃厚になる。それはつねに戦場で「死生の線」を生き延びてきたからであり、時とともに周囲の人間がこの世を去り、自身も老いていくからだ。
 そして戦は『チンギス紀』の華である。かつての盟友であり、宿命の好敵手となったジャムカとの戦いは『チンギス紀』のハイライトの一つだ。しかも物語後半では、ジャムカの息子、マルガーシがチンギスの前に現れる。チンギスの胸に去来する思いは? 私たちは綴られた言葉の一つひとつを胸に響かせながら、二人の内面を、彼らを取り巻く人びとの心を思うのだ。時折、本を閉じての空想は読書でしか味わえない醍醐味だ。
『チンギス紀』は北方謙三の『水滸伝』『楊令伝』『岳飛伝』と続いた、いわゆる「大水滸伝」に続く物語でもある。チンギスが梁山泊の英雄の血を引いているという大胆な設定により、かつて梁山泊に集った男たちが抱いた志が蘇る。歴史をさかのぼるように『チンギス紀』から「大水滸伝」へと手を伸ばすのもおすすめだ。
 

 北方謙三は『チンギス紀』に続き、『森羅記』の連載を「小説すばる」でスタートした。次なる舞台は元寇。草原から海へ。どのような物語が展開されるのだろうか。