福島第1原発の復旧工事にも携わっていた
臼田容疑者はどのような人物なのか。篤伸さんが話す。
「息子は、2歳の時に私が離婚し、すぐに再婚した後妻のもとで育ちました。地元の公立小学校から中高一貫の私立へ進みました。成績は悪くなかったと思いますがイジメを受けていたようです。私は医者になってほしいという希望があって2回ほど話をしましたが、息子は大学に進学しようとしませんでした。親の方針に従いたくないということだったんじゃないですかね」
高校を卒業した臼井容疑者は川崎市の運送会社で長距離トラックの運転手として働き、会社の寮で8年間生活していたという。バスの運転手をしたこともあるという。
30代になってから、父篤伸さんが後妻と離婚した後に、生家である今の家に戻り父との二人暮らしを始めている。
「あまり友達をつくる性格ではなかったですね。それでも一緒に暮らし始めたころは死刑反対運動に熱心に取り組んで廃止を求めるグループに入っていました。彼なりの正義感を持っていて、死刑は残酷だということだと思うのですが、理由について話をしたことはありません。
その後、東日本大震災の後は反原発運動に取り組むようにもなりました。東京電力福島第1原発事故を受け日本中の原発が止められましたが、震災翌年の2012年に野田佳彦政権が関西電力大飯原発3、4号機の再稼働を図った時の抗議運動に参加し、現地へ行ってテント生活を1年か、もっと長く続けるなど抗議をしていました。
実は私も、原発は危険極まりないと思っていて運転には反対で、テント生活をしていた息子を訪ねカンパをしたこともあります」
福島事故の後、臼田容疑者は福島第1原発の復旧工事にも携わっていたという。「反原発の一環だったんでしょうけど、そういう思想は隠して行ったと思いますよ。現地で作業員を運ぶバスの運転手をしたみたいです」
大飯原発の再稼働は震災直後の「原発ゼロ」を終え、日本で再び原発を使う岐路となった。これを阻止できなかった臼田容疑者は再び川口の生家での父との二人暮らしに戻る。だが、以前と違ったのは、それまでの友人との付き合いをやめたことだった。
「再稼働阻止がならず家に帰って来た時、息子は挫折感を抱えていたと思います。付き合いを全部断ち切り、友達は誰もいなくなりました。人間関係が面倒くさくなったんじゃないですか。自分一人でやるのが一番楽だっていうこと。それで部屋にこもって、ホームページの制作の仕事をしながら勉強を始めました」