東洲斎写楽を売り出した大博打
遊女たちの絵が人気を集めるのを嫌った幕府は、絵に彼女たちの名前を入れることを禁止します。
これに対抗して蔦重は、コマ絵を読み解けば名前になって誰の絵かわかる、「判じ絵」というものを考案します。
さらに幕府が遊女を描くことを禁ずると、今度は評判の茶屋娘を描くことで、公序良俗に反しない、「会いに行けるアイドル」を売り出す工夫もしました。
しかし、いつまでも幕府と追いかけっこをしたところでキリがありません。常に幕府が睨みをきかせており、頼みの歌麿も、このままでは仕事がしにくくなります。
そこで蔦重が目をつけたのが、娯楽の定番で規制もされていないもの。歌舞伎の「役者絵」だったのです。
このジャンルに登場したのが、東洲斎写楽という謎の絵師でした。
喜多川歌麿、葛飾北斎、そして歌川広重と並び、浮世絵師四天王の1人ともなっている写楽。ただし、その正体はいまだに判明していません。
定説では、能役者でもあった斎藤十郎兵衛という人物だったとされますが、果たして絵師でもなかった役者に、これだけの創作ができたのか。それゆえ喜多川歌麿や歌川豊国、あるいは葛飾北斎から山東京伝、蔦屋重三郎自身など、写楽の正体をめぐる説は多数あります。
いずれにしろ蔦重は、背景を黒く光る絵具で塗りつぶした大胆な手法で、この新人絵師の版画を、一気に28枚、同時発売しました。
普通、新人絵師が売り出す際の作数は多くて3枚程度ですから、これは途轍もない同時発売です。
写楽が活動したのはたった10カ月だったのですが、彼は忽然と姿を消すまでに、145点以上という膨大な数の絵を描き上げました。
もっとも、この写楽の作品が、当時の江戸で大ヒットしたかといえば、実のところ、「さほど売れなかった」というのが真相のようです。
それが10カ月で終わった理由でしょうか?
モデルとなった役者たちからも、「ありのままを描きすぎる」と不満を持たれていたことが知られています。
ただ、明治以降、写楽の作品は欧米の美術家たちが評価したことで、世界的に価値を高めました。
よって現在では写楽は浮世絵師として、最も有名な人物の1人とされています。
文/車 浮代













