2025年大河ドラマ『べらぼう』主役・蔦屋重三郎、出版物は“有害図書”だらけ? 幕府と戦い続けた江戸のメディア王の信念
田沼意次(おきつぐ)の時代、自由な風潮のもとで江戸の出版文化は最盛期を迎えた。しかし松平定信が老中首座になり寛政の改革が始まると、蔦屋重三郎が出版していた黄表紙などは“有害図書”とされ、統制や弾圧を受ける。版元の経営を支える主力商品の危機に、彼はどう対処したのだろうか?
本稿は、車 浮代著『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものをお届けする。
『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』#2
東洲斎写楽を売り出した大博打
遊女たちの絵が人気を集めるのを嫌った幕府は、絵に彼女たちの名前を入れることを禁止します。
これに対抗して蔦重は、コマ絵を読み解けば名前になって誰の絵かわかる、「判じ絵」というものを考案します。
さらに幕府が遊女を描くことを禁ずると、今度は評判の茶屋娘を描くことで、公序良俗に反しない、「会いに行けるアイドル」を売り出す工夫もしました。
しかし、いつまでも幕府と追いかけっこをしたところでキリがありません。常に幕府が睨みをきかせており、頼みの歌麿も、このままでは仕事がしにくくなります。
そこで蔦重が目をつけたのが、娯楽の定番で規制もされていないもの。歌舞伎の「役者絵」だったのです。
このジャンルに登場したのが、東洲斎写楽という謎の絵師でした。
喜多川歌麿、葛飾北斎、そして歌川広重と並び、浮世絵師四天王の1人ともなっている写楽。ただし、その正体はいまだに判明していません。
定説では、能役者でもあった斎藤十郎兵衛という人物だったとされますが、果たして絵師でもなかった役者に、これだけの創作ができたのか。それゆえ喜多川歌麿や歌川豊国、あるいは葛飾北斎から山東京伝、蔦屋重三郎自身など、写楽の正体をめぐる説は多数あります。
すべての画像を見る
いずれにしろ蔦重は、背景を黒く光る絵具で塗りつぶした大胆な手法で、この新人絵師の版画を、一気に28枚、同時発売しました。
普通、新人絵師が売り出す際の作数は多くて3枚程度ですから、これは途轍もない同時発売です。
写楽が活動したのはたった10カ月だったのですが、彼は忽然と姿を消すまでに、145点以上という膨大な数の絵を描き上げました。
もっとも、この写楽の作品が、当時の江戸で大ヒットしたかといえば、実のところ、「さほど売れなかった」というのが真相のようです。
それが10カ月で終わった理由でしょうか?
モデルとなった役者たちからも、「ありのままを描きすぎる」と不満を持たれていたことが知られています。
ただ、明治以降、写楽の作品は欧米の美術家たちが評価したことで、世界的に価値を高めました。
よって現在では写楽は浮世絵師として、最も有名な人物の1人とされています。
文/車 浮代
『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人 歌麿にも写楽にも仕掛人がいた!』 (PHP文庫)
車 浮代
2024/8/5
829円(税込)
232ページ
ISBN: 978-4569904290
2025年大河ドラマは「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」。蔦重こと蔦屋重三郎は、「浮世絵黄金期」と呼ばれた江戸時代の、天明~寛政期(1781年~1801年)に、版元として活躍した。当時の版元は手短に言えば出版社と書店を兼ね備えた職種で、版元の社長である蔦重は、編集と出版プロデューサーの役割も果たした。 本書では、出版王・蔦屋重三郎と、彼と深く関わり江戸中期の文化を創った絵師・作家13人を紹介する。13人とは、喜多川歌麿、葛飾北斎、北尾重政、勝川春章、鍬形蕙斎(北尾政美)、十返舎一九、朋誠堂喜三二、山東京伝(北尾政演)、曲亭馬琴、恋川春町、四方赤良(大田南畝)、石川雅望(宿屋飯盛)、東洲斎写楽。 蔦重の最大の功績は、名プロデュ―サーとして数々の異才を世に送り出したことと言えるだろう。その中で、蔦重が発掘して大出世した代表格が、浮世絵師の喜多川歌麿だ。画力はあるものの、いまひとつパッとしなかった歌麿を、蔦重は恋女房ともども店舗兼自宅に住まわせ、その才能を開花させた。そしてもう1人、東洲斎写楽は、蔦重がデビューさせた絵師だ。1794年から1795年のわずか10カ月という活動期間に145点以上の作品を残し、その後、忽然と姿を消したせいで、その正体が今もなお謎とされている。 なぜ蔦重のもとで、絵師や作家が開花したのか? 長年、蔦重に関心を寄せ、時代小説『蔦重の教え』の著書もある江戸料理文化研究家が、その疑問に明快に答える。粋な江戸文化をワクワクしながら学べる一冊。巻末には、本書に登場する主要人物ゆかりの地のマップや蔦屋重三郎年表も掲載。