「娘が完全に手を離れたら離婚しよう」

遠野さんがライターになって10年ほど経った頃、友人から「英語で記事を書けば、もっと仕事が広がるのでは?」と提案される。

遠野さんは、「英語で記事を書いても、英語圏の新聞や雑誌に掲載されるなんて、私には無理だ」と思ったが、「ダメで元々」。世界有数の新聞社数社に1〜2回記事を送ってみた。

半年ほど経ったが梨のつぶてのため、編集部に勤める帰国子女の友人に相談すると、「やっぱりネイティブじゃないと難しいんじゃない?」と言われ、落胆もした。

それでも諦めず3度目の記事を送付すると、2週間ほど経った頃、掲載決定の連絡がきた。

「世界有数の新聞紙に載るなんて夢みたいで、自分が書いた記事をプリントアウトして夫に見せました。すると夫は、記事に目をすべらせるとその紙をぱっと投げ、『英語がひどすぎて読める代物じゃない』と……。ところがその記事は、既に現地の編集者が編集したもの。英語がひどいなんて、言いがかりもいいところでした」

写真/Shutterstock ※写真はイメージ
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この時、「この人とはもう無理だな。娘が完全に手を離れたら離婚しよう」と決意した。

「義父は東大卒の弁護士でしたが、しょっちゅう義母をバカにしていて、夫婦喧嘩が絶えませんでした。義両親を見ていて、『こんなふうに歪み合っているのに、経済的に自立できないせいで離れられない夫婦にはなりたくない』思っていました。『お金があっても幸せではない』と痛感しましたね」

「一家の大黒柱としての重圧を背負ってつらかった」と言い出す夫…

高校入学と同時に娘が留学したことを機に、遠野さんは離婚を切り出した。すると夫は、堰を切ったように、遠野さんに対する恨みつらみを吐き出し始めた。

「夫に『一家の大黒柱としての重圧を背負ってつらかった』と言われましたが、私は結婚して23年間、自分がハッピーじゃないことは何度も告げたのに、夫は聞く耳を持たず、『嫌なら離婚しろ』としょっちゅう言われていました。まったく共感力がなく、常に独善的で、歩み寄ることができない人でした」

23年前、「一生、君が働かなくてもいいように責任を持つから、一緒に帰国して結婚してほしい。君は仕事をしてもいいし、しなくてもいい。ただ幸せに笑って暮らしてほしい」という自分が放った言葉に、夫自身も縛られていたのだろうか。

写真/Shutterstock ※写真はイメージ
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少なくとも夫は、遠野さんが幸せに笑って暮らしていなかったことにはまったく気づいていないばかりか、夫自身が苦しみを与えていたということさえ自覚していなかった。

一通り吐き出し終えた夫は、「やり直したい」と言い、遠野さんは耳を疑った。

「確かに優しい時もあり、娘の夜泣き対応をしてくれたことは一度もありませんでしたが、家事育児を全くしてくれなかったわけではありません。でも、私を小馬鹿にし続け、特に私の就職活動がうまくいかなかったときに、『そんなの日本なんだから当たり前じゃん』『最初から分かっていたことだろ? もしかして分かってなかったの?』と言われたことが頭から離れません」

遠野さんが「いや、もう無理でしょう?」と首を振ると、夫は離婚を受け入れた。