〈前編〉

アーティストイメージを守るための「日サロ通い」

–––キマグレンには、やはり「逗子」「夏」「海」といったイメージを持つ人が多いと思います。そのイメージに苦しんだときはありましたか?

KUREI ありましたね。ただ、それは自分にとって都合のいい解釈だと思います。というのも、やはり「夏」「海」といったイメージに助けられたことも多いんですよ。イメージに沿って活動しなきゃいけなくて息苦しかった一方で、そのおかげで素晴らしいこともたくさん体験できた。いいとこ取りはできない、ということですね。

ISEKI 食べ物だって、同じものを摂取し続けると、やはり飽きや不調が出てきますよね。それと同じで、もっとバランスを取りたいと思うことはありました。

KUREI それこそ、イメージのために、二人で頑張って肌を焼いていた時期がありましたよ。当時、僕は外で日焼けしていたんですが、ISEKIは日焼けサロンに通っていて。「キマグレンなのに、日サロに行くのは違くない!?」って話をしました。

ISEKI KUREIは比較的すぐに日焼けできるのですが、僕はなかなか焼けなくて。ステージの映像とか見ると僕だけ白くて、「これはマズイな……」と思って日サロに通いましたね(笑)。

二人の地元・逗子海岸で取材
二人の地元・逗子海岸で取材
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–––そういう意味でも、キマグレンは地元・逗子を大切に活動してきたように思います。お二人の中にも、そういった気持ちはあるのでしょうか?

KUREI 「音霊OTODAMA SEA STUDIO」を立ち上げたころは、やはり地元を盛り上げたいという純粋な気持ちが大きかったんですよ。ただ、運営を続けていく中で、逗子市や街の方々と“大人の付き合い”をしなくてはならなくなった。

そして、キマグレンの存在が大きくなるとともに、そのズレもどんどん大きくなっていきました。もちろん逗子は大好きですし、素敵な街だなと思いますが、当時のような“大人の付き合い”に戻るのはちょっと嫌ですね。

ISEKI 僕らが海の家を運営することに関して、望んでいる人もいれば、そうではない人もいるわけです。そのジレンマに苦しんだ、というのはありますね。

KUREI 逗子をレペゼンしたことで、「なんで勝手に逗子を代表しているんだ」という人も一定数いましたよ。キマグレンの名前が大きくなればなるほど、そういう人たちは増えていった印象です。

ISEKI しかも、そういう人たちの声って、意外と耳に入ってくるんですよ。現在ほどSNSが普及していない当時でもそういう状態でしたから、今はもっと大変だと思います。