米軍による沖縄調査と首里城の保護
首里城は、うっそうと茂る樹木に囲まれた高台にあった。ハワイ・オアフ島に司令部を置く米第10軍は、1945年春に予定されている沖縄侵攻のために大至急情報収集を開始した。
ただし沖縄の地形に関する情報が集まらず、古い出版物から情報を得て、さらに航空写真で不足分を補った。また米工兵隊は、作戦地に関する立体モデル(ジオラマ)を作成し、その中には精度の高い首里城・首里高地の立体モデルも含まれていた。
米第10軍では「そこ(首里城一帯)では、最も強力に建築物が守られているに違いない(*4)」としつつ、1944年10月以来、首里地区の特別監視活動を続けていた。
これとともに米軍は、沖縄侵攻と同時に始まる民間人統治、いわゆる軍政府施行のための報告書を出している。これは、米海軍省の作成になるもので『民事ハンドブック琉球列島』(1944年11月刊行)と呼ばれた。その中で首里は、単に行政区分の市として分類分けされているだけだ。
「王府の古城が高台にあり、市全体を見おろしている。その北側には有名な円覚寺や市役所があり、周辺には多数の歴史的・宗教的建築物がある(*5)」
貼付された図録に、首里城正殿の写真が掲載されている。
次いで沖縄侵攻作戦の全体像を示した『第10軍作戦アイスバーグ作戦』(1945年1月6日策定)の中で、首里地区内の攻撃目標を定めているが、首里城は攻撃目標にも回避すべき対象どちらにも入っていない。
ところが、『アイスバーグ作戦』を出した同じ日に軍政府関係者へ通達された「作戦指令第7号(略称ゴーパー)」には、「文化的な価値のある遺産や記念物は、軍事状況の許す限り保護され、保存される(*6)」と指示している。
これとほぼ同様な文言が、1945年3月1日に公布された「ニミッツ(最終)指令」にも記載されている。この考えは、第二次世界大戦レベルで言われた一般命令と同じで、文化財の保護と自国軍隊による文化財の略奪を防ぐねらいもあった。
また、沖縄戦のさ中の1945年5月、米陸軍動員部隊司令部は、『日本の文化施設への爆撃制限』と題する手引書を作成している。手引書では、日本国内の重要文化施設などに対し、爆撃を制限すべきだとして一覧表が掲載されている。その中に首里城も入っていた(*7)。
手引書が具体的にどのように活用されたかはっきりしないが、翻訳者の解説によれば、「戦時中に、日本の文化施設に対する考察がこの『手引き』のようになされていたということだけは事実(*8)」であると記載している。
ただし、軍事施設が置かれた岡山城(岡山県)や広島城など、19カ所の国宝・文化財が空襲や原爆などにより、首里城と同じく焼失しており、一概に手引書に基づき文化財が残されたとは言えまい。
かくして、1944年10月の「沖縄大空襲」から翌1945年4月までの約半年間、首里城は一度も攻撃を受けなかった。
前年10月10日の空襲で作成された「攻撃目標地点首里第17」では、首里地区に重要な軍事施設があると結論づけたが、とりたてて首里城を「攻撃地点」や「爆撃制限」地区に指定してはいない。
そうすると米軍は、首里城一帯に軍事的構築物があることを承知の上で、一時的に砲爆撃の回避地区に指定したといってよい。これは首里城地域が、沖縄で最も伝統的建築物の集合的場所であることと、第10軍が長期にわたり首里地区の追跡調査を行なった結果、ある程度の軍事的目安がついていたことと関係がありそうだ。