誰が入学してくるのかわからなかった 

――松永さんが指導者としてのキャリアをスタートさせたのが中大。その1年目に入学したのが関田選手たちの代だったとうかがいました。当時を振り返り、どんな選手でしたか?

松永(以下同) 監督になるとはいっても、実情は誰が入学してくるのかわからない状態でした。関田、僕は名前で誠大と呼ぶのですが、誠大のことも「いいセッターが入ってくる」とは聞いていましたが、東洋高で日本一になったことも知らなかった。

彼らが入学する前の3月に僕も大学に合流して、初めて誠大のトスを見た時、彼のふわっとしたトスが若干浮きすぎているように見えたので「もう少し頂点を伸ばすトスのほうがいいんじゃないか」と話したのはよく覚えています。

しかもその話をしてからすぐ、彼が求めるトスの軌道を意識して上げてくれた。言われてすぐにできる選手なんだ、というのも強く印象に残りました。

中央大時代の関田誠大 写真/アフロスポーツ
中央大時代の関田誠大 写真/アフロスポーツ
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――当時から「いずれは日本代表へ」と思い描いていましたか?

「すぐには無理かもしれないけれど、これほどの技術がある選手なら、いつかは日本代表へ」とは思いました。ただ、誠大が入学した当初は中大にも3年生に上手なセッターがいて、彼を中心にチームを考えていたんです。

でも春季リーグの直前にそのセッターが捻挫をしてしまい、誠大に出場機会が巡ってきた。試合に出るうちにどんどんトスの質もよくなって、トス回しも多彩になった。

2年生まではサーブレシーブがほとんど返らなくて「(乱れたレシーブをつなげるために)こんなに走ったのは初めてです」と本人も言っていたぐらいなのです(笑)。ただ、そうやって必死につなぐ姿や、攻撃の幅などを見れば見るほど、日本代表でプレーさせたいし、行くべき選手だと思っていました。