僕等はそれですべてを失うのではない
失恋とは恋を失うことではないと僕は云いました。失恋しても僕等は恋することは出来る。そしてそれはすばらしいことです。
僕は決して自慰的な感傷主義や、妙に悲壮がる自己陶酔についてしゃべっているのではありません。僕はむしろ失恋してもなお恋することの出来る愛について云いたいのです。
その愛は決してただ男と女との間の愛のみを意味しません。それは僕等が生まれながらにもっている生きることへの愛、世界への愛なのです。そして恋する者は、恋することによってまたそのような愛をより深く知るのではないでしょうか。
恋人を失うことは苦しいことだけれども僕等はそれですべてを失うのではない。僕等は生き、世界は僕等に残されている。そして苦しむ程僕等は生きることを愛するようになる、相手のない恋に堪えている間に、僕等はきっとそれさえも生きているものの特権だと思うようになります。
晴れた空や、若い樹や、いきいきとした街をやはり愛しているのだということに気づくのです。
世界が私を愛してくれるので
(むごい仕方でまた時にやさしい仕方で)
私はいつまでも孤りでいられる
私に初めてひとりのひとが与えられた時にも
私はただ世界の物音ばかりを聴いていた
私には単純な悲しみと喜びだけが明らかだ
私はいつも世界のものだから
空に樹にひとに
私は自らを投げかける
やがて世界の豊かさそのものとなるために
……私はひとを呼ぶ
すると世界がふり向く
そして私がいなくなる
僕はひとを愛する時にも、それがいつも世界への愛と同じものであることを念(おも)います。僕等は恋する者の孤独もまた世界への愛のうちにあるということに気づく。
「現代人が孤独をかこつのを耳にするとき、私は事情を諒解(りょうかい)する。彼等はコスモスを失ったのだ。──欠けているのは人間的なものでも個人的なものでもない。それはコスモス的生命、吾々(われわれ)のうちなる日月である」とロレンスはそのアポカリプス論の中で云います。
僕の云う世界はこのコスモスと同じものです。もし僕等がこのコスモスへの愛をもっていなければ僕等は恋することさえ出来ない、そしてもしもっていれば僕等はどんな苦しい失恋にでも堪えることが出来るのではないでしょうか。恋を超えたもっと大きな愛に支えられて。
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