自分以外の文脈を配置する

あかりは究極的に自分の文脈のすべてを「推し」に集約させている。

しかし『推し、燃ゆ』という物語が面白いのは、自分の文脈すべてを集約させていた「推し」から離れる境地までを描いているところだ。

ふと、祖母を火葬したときのことを思い出した。人が燃える。肉が燃えて、骨になる。祖母が母を日本に引き留めたとき、母は何度も祖母に、あなたの自業自得でしょう、と言った。

母は散々、祖母にうちの子じゃないと言われて育ってきたらしい。今さら娘を引き留めるなんて、と泣いた。自業自得。自分の行いが自分に返ること。肉を削り骨になる、推しを推すことはあたしの業であるはずだった。一生涯かけて推したかった。それでもあたしは、死んでからのあたしは、あたし自身の骨を自分でひろうことはできないのだ。

「他者の文脈をシャットアウトしないこと」「仕事のノイズになるような知識を受け入れること」それこそが働きながら本を読む一歩だ_2

「推し」を推すことは、自分の人生そのものであるはずだった。しかし─自分だけでは、自分は生きられない。そのことにあかりは直面する。自分の骨は、自分で拾えない。他者に拾ってもらわなくてはいけない。自分の人生から離れたところで生きている、他者を人生に引き込みながら、人は生きていかなくてはならない。

自分の人生の文脈を、「推し」とは違うところに配置しなくては、生きていけない。

自分の人生の文脈以外も、本当は、必要なのだ。人生には。

そうあかりは、悟るのだった。