「百物語」を盛り上げた幽霊画の始祖・円山応挙

応挙はいわゆる美人顔の足のない女の幽霊を描き、後進に大きな影響を与えました。ただ面白いことに、世の中に「応挙の幽霊画」と呼ばれるものは数あれど、実は現存する作品の中で真筆といわれているのは二つのみなのです。

一つはカリフォルニア大学バークレー校美術館に寄託されている「幽霊図」、もう一つは弘前の久渡寺(くどじ)にある「返魂香之図(はんごんこうのず)」。

円山応挙「返魂香之図」(久渡寺蔵)
円山応挙「返魂香之図」(久渡寺蔵)

前者は応挙のサインも入っていて、私も江戸東京博物館に来たときに見ていますが、応挙筆に間違いはないと考えています。後者は年に1回、旧暦の5月18日に当たる日に1時間だけ公開されています。こちらの方がさらに出来がよいですね。

応挙の幽霊画が有名なので、応挙の落款があるもの、応挙筆と称するものは世の中に何十とあります。間違いなく、応挙のものではない。でも所蔵するお寺では応挙といっているのだから、それはそれでいいと思います。幽霊というのもある意味で信仰と共にあるものですからね。

そもそも、なぜ応挙の幽霊画が単独で掛け軸に描かれたかというのは──これは私が勝手に想像しているだけで根拠はあまりないのですが──江戸時代の出来事を調べたら、ちょうど応挙の活躍した江戸中期の安永年間(1772~81)に、商人クラスの人々を中心に「百物語」という怪談会が大流行していたんです。

仲間を集めて怪談を1話ずつ披露しては、別室に立てた100本の蠟燭(ろうそく)を1本ずつ消していくというもので、100本目が消えた時に怪が起きる、という。

それで、恐らくその会を主催した会主の一人が「床の間用に何か幽霊の絵を」と応挙に頼んで描いてもらったんじゃないか。それに人々はびっくりしたんでしょうね。それまでの幽霊には美人という定番もなかったし、足のない幽霊もいなかったわけですから。

定番を作ったのは応挙です。死装束の女性はキリッとしているけれど、見方によっては恨みが残っているのか、それともただ美しく微笑んでいるのか。

面白いのは紅をさしていること。死後に湯灌(ゆかん)をして死化粧をした、そのままの姿かなとも思えます。この絵が大評判になって、次の会主が「今度は他のヤツに描かせて、あっちの会主をびっくりさせてやろう」という感じで、競い合って絵師たちに幽霊画を注文した。私はそう考えています。