平安時代に呪いはどのように扱われていたのか

ドラマの第6~7回にかけては、藤原兼家が晴明に、藤原忯子の腹の中にいる子どもを「呪詛せよ」と依頼すると、なんと忯子は母子もろとも命を落とすことになった。子どもだけでなく、忯子の命まで奪った晴明を兼家は責めたが、晴明は逆に「私を侮ると、右大臣さまご一家とて危うくなる」と脅し返して黙らせるなど、晴明は権力者にも屈しないほど、圧倒的な力を持っていることがわかる。

さらに3月17日放送の第11回では、藤原兼家らにそそのかされて出家した花山天皇(現花山院)が、報復とばかりに呪詛を行う姿に合わせて、天皇の即位式の時のみに用いられる高御座で、生首が発見されるという事件が発生した。

呪いのイメージ
呪いのイメージ

従者たちは震えあがっていたが、こういった描写は視聴者の間で〈この時代は占い事が政治的に重要な位置にあったんですね。 今では考えられません〉〈占いの影響度は我らの時代とは比べ物にもならぬわけですよね〉〈呪いや占いが権力を持つ時代〉〈呪詛とか夢とか目に見えないものが怖がられているけど、生首がいきなり現れるような物理的ホラーもあるからこの時代大変〉といった反応があがった。

いったい平安時代では人々の間で、呪いはどのように扱われていたのだろうか。日本人と呪詛の関係について、Podcast番組「主に日本の歴史のことを話すラジオ」のパーソナリティで、歴史に詳しい水無月さんに解説をうかがった。

「古代以来、呪詛により政敵を葬った例や怨みを飲んで死んだ人の怨念が様々な事件を起こすといった出来事や文学作品等が多く伝えられていることから、人々にとって呪詛や怨みのパワーは身近なものであったと考えられます。一方で呪詛を相手に返す方法や、逆に呪詛を仕掛けたとして政敵の罪をでっち上げることもあり、呪詛や怨念とはほどよい距離感で付き合っていたのかもしれません。『人を呪わば穴二つ』(人を呪うと墓穴が2つ、すなわち自分にも罪過がおよぶ)という言葉もあり、多くの人にはダークなイメージで忌嫌われてもいたようですね」(水無月)

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われわれ日本人が、心のどこかで呪いや迷信を信じてしまうのは、そういった古くからの時代の流れが関係しているのだろうか。

「呪詛は権力者の道具であり、一方で権力者や強者の絶大な力の前でどうすることもできない弱者の最後の抵抗手段でもあり、どのような時代になっても決して消えることはないように思います。平城京跡からも呪いの人形が出土し、今日でも京都の某神社では、しばしば丑の刻参りの藁人形が発見されるとか。日本人と呪詛のお付き合いは、決して絶えることはないようでしょうね」(水無月)

確かに、ドラマでは権力者が己の地位をあげようと邪魔者を消すために呪詛を用いるシーンが目立っているが、記事の冒頭で紹介した“現代の呪い”の逸話の数々はどれもが、強者に虐げられた弱者が、その恨みとしてやり返しているものばかりだ。やはり呪いは、“最後の抵抗手段”でもあり、“最後の希望”でもあるのだろうか。

取材・文/集英社オンライン編集部 写真/shutterstock