キッチンカーから始めた飲食業

しかし08年、リーマンショックが襲いかかる。世界的な金融危機から消費は鈍り、製造業は軒並みの減産。大泉の主力産業である富士重工業(現スバル)も三洋電機(現パナソニック)も大打撃を受け、その下請けで働いていた日系ブラジル人は次々とクビを切られた。大泉に住む日系ブラジル人の8~9割が無職になった、ともいわれる。当然、教育にお金をかける余裕などなくなる。

さらに11年、今度は東日本大震災が発生。福島第一原発の事故から放射能を恐れた外国人がいっせいに帰国する動きが広がったが、大泉も同様だった。

「せっかく買った家や車を捨てて帰った人もいました。正しい情報を理解して判断するだけの日本語力がない人が多かったんです」

だからこそ学校が必要だと感じたが、肝心の生徒はずいぶんと減ってしまった。そこで、もうひとつなにか経営の柱を……と考えて、飲食に手を広げた。

「最初はパステルの移動販売だったんですよ」

キッチンカーを仕立ててイベントに出店し、パステルを売り歩いた。すると、その大きさや味が話題になって、「店はどこにあるのか」と聞かれることが多くなる。これはいけるかもしれない、と瀬間仲さんは考えた。

「それなら、自分たちで店を構えてみようかと」

「支えてくれた人に背を向けられない」――ブラジルレストランを経営する元プロ野球選手・瀬間仲ノルベルトの波乱万丈人生_g
広々とした店内。日本人の野球ファンもときどき足を運ぶ

パステルをメインにしたレストランを大泉に開いたのは15年のこと。少しずつメニューを増やし、景気の回復もあって地元のブラジル人のお客も増えてきた。「あの瀬間仲ノルベルトの店か」と日本人の野球ファンもときどきやってくる。ようやく軌道に乗ってきたか……というタイミングで、今度はコロナだった。

「ふしぎですよね(笑)。学校を始めたらすぐにリーマンショックで、学校だけじゃと思って飲食を始めたら飲食を直撃するコロナで」

しかし、瀬間仲さんはさらなる新しい目標をすでに持っていた。

「実は、前から〝トレーダーになりたい〟という夢があったんです。コロナで時間ができて勉強しているところです。けっこう楽しいです」

なんて笑うのだ。どこまで行ってもめげない男なのである。

それでも、この街で暮らす人々のためにという気持ちは変わっていない。学校の運営にも引き続き力を入れている。レストランでの取材時、よく来るのだという家族連れの女の子をかまっていた瀬間仲さんは、しみじみと言った。

「この子は小さいころにブラジルから来て、日本の学校にも通っている。だから日本語もポルトガル語もわかるんです。こういう子たちが、自分たちの代表になってくれればって思います」

(撮影/室橋裕和)