教育の独立性は保たれるのか
重要に思えたけれど、映画に入らなかったインタビューをここに紹介します。教育行政に関する理念の本質に関することです。
1947年に制定された教育基本法は、第一次安倍政権下の2006年に見直された時、教育行政の不偏不党性を謳った条文の一部が改変されます。それでも条文には旧法の「不当な支配に服することなく」という文言が残っています。
そこで次のように私は質問を投げかけたのです。
「『不当な支配に服することなく』と教育基本法に明示されている「教育の独立性」について、なぜ、この条文が存在しているかについて、歴史的経緯を踏まえ、お考えをお聞かせください」
神山教科書課長は、手元に用意していた紙に目をやりながら、すらすらと答えました。
「『教育は、不当な支配に服することなく』 の趣旨は、その教育が国民全体の意思とは言えない一部の勢力に不当に介入されることを排除して、そして教育の中立性ですとか、不偏不党性を求めると、そういった趣旨の規定だというふうに認識しております。
いっぽうで、平成8年に教育基本法が改正されて、その中で、条文が少し追加をされて、その教育において『法律の定めるところにより行われるべき』ということが新たに規定をされた内容だと承知しております。
結果その条文で国会において制定される法律の定めるところにより行われる教育が、不当な支配に服するものではないということは明確になったというふうに思っておりまして、教科書の検定基準といった法令に基づいて、教科書の検定をさせていただくということが、教育の基本法の理念に基づいた教科書が子どもたちの手に届くようにすることの一翼を担っているんじゃなかろうかと思ってございます」
つまり、法律に則ってさえいれば、不当な支配にはならない、と微妙に論点をずらしながら、そう明確に回答したのでした。
戦前の反省を踏まえ、本来教育のあるべき姿は、政治からの独立という民主的社会の普遍的価値観に従って、戦後に教育委員会制度が設けられました。ところが、そこから権力側が都合よく教育基本法や教育行政の関連法などを変えていったわけです。
これら歴史的経緯をすべてスルーして、安倍政権が主張してきた通りに回答する官僚の姿に、私はショックを受けます。学会では解釈が割れているのではないでしょうか。教育において侵してはいけない普遍的な価値が、時の政府によって歪められ、多数決によって決まる法律で教育行政や教育の中身が歪められる恐れはないのでしょうか?
その答えは、過去も現在もそして未来も、「ある」でしょう。全体主義国家であっても法律の定めるところにより教育を行ってきたはずです。子どもたちを戦地へ送り出し、自己犠牲を強いた戦前の日本の学校教育だって法律に従ってのことです。
「政府の代理人」となった国民学校は「鬼畜米英」という言葉を、現在の「みんな仲良く」と同じようにスローガンとして教室に掲げました。先生たちの多くは国家つまりお上を見ていたのです。でもその姿は、当時の決まりごとや法律に従って働く真面目な先生だったでしょう。
最高裁判所の判例は、不当な支配を行う主体として、党派勢力・宗教勢力・労働組合・その他の団体や個人だけでなく、公的機関もそれになり得ると示しています。教育本来の目的を歪めるような行為は、いずれも不当な支配になり得ると言えるのです。
教育基本法の改正から15年が経過し、政治家が述べた通りに官僚も明確に追随する事態に違和感と危機感を覚えます。以前、東大阪市で講演した文科省元事務次官の前川喜平さんの言葉を思い起こしました。
「戦後の教育基本法という家は、火事ですっかり燃えてしまったが、『不当な支配に服することなく』という文言は、かろうじて燃え残っている柱です」
その柱も、もはや崩れ落ちゆく寸前なのだと痛感させられました。
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