昭和館のそばに
家を建てて、
毎日観にきますよ
いまでも許せないことがあります。
火がおさまっていないのに、警備会社の制服を着た人が、ニヤニヤと笑いながら、携帯電話で話していたのです。野次馬でも腹が立つのに、警備会社は当事者なのに、うちも契約していたのに……。
記憶は混乱しているのですが、わたしは「もうダメやね」と話して、夫と息子と3人で、現場から引き上げたのだと思います。
実家に寄ったら、父はまだ起きていました。
「こんな目にあうとはなあ。2度も火事になって、全部なくなるとはなあ……」
娘としては、言葉もありません。館主としての責任を感じて、くちびるを嚙みしめるしかない。父は「まあ、しょうがないやろ」と、あきらめたような口ぶりです。
すぐ家に帰ったのだろうと思います。
眠れませんでした。
どうしても眠れない。真夜中の3時ぐらいに、もう一度、ひとりで現場に行きました。
大通りでタクシーを降ります。
そろそろ近くまで行けると思ったのですが、路地には入れません。旦過市場のほうは、まだ火がくすぶっていますが、映画館の火は消えているようでした。
「ああ、昭和館が、昭和館が……」
と、泣いてくださっている方もいました。
あの建物には、83年の歴史があります。私の祖父が、戦前の昭和14(1939)年に芝居小屋兼映画館として創業しました。
女優の秋吉久美子さんがイベントに訪れたとき、「こんな素敵な映画館はない」とおっしゃってくれています。
もとが芝居小屋でもありますから、座席の傾斜が急で、どこの座席からも舞台の木目まで見えます。前のお客さんの背が高くても、後ろの人の邪魔にならない。間口も広くて、奥行きもちょうどいい。
いろんな見やすさがあるのだと、秋吉さんは語ってくれました。
「わたしがもし、文学好きの少女のまんま、めでたくお金持ちと結婚できたとしたら、昭和館のそばに家を建てて、毎日観にきますよ」
イベントの司会をつとめながら、わたしは「なんていう幸せ……」とつぶやいていました。
あの建物を失ったのは、痛恨の極みですが、焼け落ちる瞬間に立ち会うことができました。
瓦礫と化した昭和館から離れて、ウロウロしているうちに、空が明るんできました。家にもどって、その日は眠れたのでしょうか。
そんなことも思い出せなくなっています。
写真/shutterstock