映画館の悲鳴

息子の直樹は、防災管理者でした。「自分が残っていたら、大事なものを持ち出せたのに」と悔やんでいます。わたしが残っていたら……。どんなに燃えていたとしても、火を消そうとしていました。

お客さまがいなかったのは幸いですが、わたしは館主として、昭和館と運命をともにしたかった。

やがて市場の火がひろがり、歴史ある建物が、炎に包まれます。

消防車が放水をはじめたので、機械はダメだと覚悟しました。35ミリの映写機も、ずいぶんと高価だったDCP(デジタルシネマパッケージ)上映機器も、お預かりしていたフィルムも、すべて燃えます。

たくさんの映画人のサイン色紙も、高倉健さんからいただいた手紙も、三浦春馬さんのファンがくださったお花も、特製のアイスクリームやポップコーンやマドレーヌも、灰になります。

映画館の悲鳴が聴こえました。

88歳の父に、わたしは電話をかけています。

「燃えてる。うちはダメ……。もう、もう、焼け落ちた……」

父は、冷静でした。

「焼けたものは、仕方ないじゃないか」

立ち会わなければならない。目をそらしてはいけない。それだけでした。

このときの映像が、テレビに何度も流れています。不思議なもので、あれが追体験となって、いまはどこか他人事のように思えるのでした。

父は2代目館主として、映画界の栄枯盛衰に立ち会っています。

あとで知ったのですが、わたしたちが「こなくていい」と言ったのに、父はひとり、燃え落ちる昭和館にむかっていました。

この現実を、自分の目で確かめるために……。

「燃えてる。うちはダメ……。もう、もう、焼け落ちた……」2度の火災で北九州・旦過市場の老舗映画館が焼け落ちた日_2
写真はイメージです

まあ、しょうがないやろ

何もかも、燃えました。

映画館の最期をみとることができたのは、不幸中の幸いです。

4月の火事のとき、わたしは県外にいました。真夜中に新聞記者から「旦過市場が燃えている」という連絡を受けて、すぐにクルマで帰っています。

あのとき、昭和館は無事でした。裏の窓ガラスが割れているだけで、市場のほうも鎮火していました。

8月の火事では、断末魔の悲鳴を聞いています。わたしに見届けさせようと思ったのかもしれません。

宮大工さんがつくった神棚も燃えました。うちの創業当初からあるもので、「あれが一番、価値があったかな」と、いまさらながら父は悔やんでいます。わたしも毎朝、手を合わせて拝んでいました。

光石研さんが寄贈してくれた特設シートは、コロナによる緊急事態宣言が発令された2020年の秋につくったばかりでした。黒田征太郎さんが壁に描いてくれていた「へのへのえいが」のイラストも、すべて瓦礫になりました。

記憶にないのですが、あとでテレビを見ていたら、こんなことを話しています。

「うちは残してもらったからね、前の火事で……。やるべきことがあると思っていたのに、いろんなことを予定していたのに……」

あの日の夜。焼け落ちる建物から離れて、ふらふらと歩いていました。

すでに消防本部ができていました。

消防や警察の人たちに、名刺を渡します。顔なじみの方々もいました。4月の火事のときには、昭和館のロビーを開放して、コーヒーやお菓子を提供していたので、みんなと親しくなっていたのです。

火を出してしまった小料理屋の女将は、着物姿で立ち尽くしていました。「ダメやったんやね」と両手で頭を抱えて座り込んでいたのは、顔なじみの珈琲店のマスターでした。

炎にちらちらと照らされながら、みんな途方に暮れています。

北九州の台所として大正時代から栄えている旦過市場は、2度の火災で壊滅的な被害を受けたのです。

昭和館も燃えたので、今度はみんなを助けられない。