コロナ禍の政治を振り返る

新型コロナウイルス感染症のパンデミックが巻き起こった3年間におけるコロナ政治とはなんだかったか、その“正体”を解き明かす拙著『奔流 コロナ「専門家」はなぜ消されたのか』(講談社)を上梓してから、SNSに流れる、専門家をめぐる反応はまっぷたつに割れた。

《日本の死亡者数は抑えられた》と英雄視する意見と、《飲食店を狙い撃ちにした政府の規制を後押しして分断を助長した》と国賊視する意見である。

この状況を見て、私は79年前の長崎に投下された原爆で被爆しつつも原子力の平和利用を肯定した放射線医学者、永井隆さんが書いた一文を思い出した。

なぜメディアは沈黙したのか。コロナ専門家たちだけがウイルス対策への批判を受けるべきだったのか_1
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「科学の世界ではつぎつぎと新しい研究が発表されています。その中には正しいものもあり、まちがったものもあります。正しい学説は文化を進めますが、まちがった学説は人類を不幸に導きます」(永井隆『ロザリオの鎖』1948年刊)

だからデータを積み上げ、研究が導き出した考え方が正しいかどうか、よくよく確かめる実験を重ねながら物事を進めることが大切だ――そんな科学に対するものの見方を小学生に説いた文章である。

永井先生のおっしゃる通りなのだけれど、2020年代初めに起きたコロナのパンデミックを考えるにあたっては少し違う事情もある。この3年間はいわば火事場で、「今日までのデータをもとにひとまず明日の対策を練って決める」というように、走りながら決断を下すことが政治には求められた。どの対策が「正しい学説」に近く、どの対策が「人類を不幸に導く考え方」に近いのか、確かめられないことばかりだった。

ならばどうするか。国民が納得を得ながら対策を進められるか。政府の方針を噛み砕き、混ぜてみせ、落ち着かせて先に進む――。そんな役割を果たさなければいけなかったのは、新聞やテレビといったメディアだった、と私は思う。実際、そんな役割が何度も問われる局面が何度かあったが、そのつど、メディアは沈黙した。

印象深いのは、2022年の1月から3月にかけてのことだ。

1年で3度の緊急事態宣言、五輪開催延期と医療崩壊という激動にゆれた前年が終わり、さあこれから社会を動かしていかなければいけない。だが、「いつ緩和するのか」「どうやって緩和するのか」というターニングポイントを見極める決断が近づいていた。