被災時のままの靴下と靴ってものすごい臭いを放つんです

ある音楽家が自身のX(旧Twitter)で「今回の地震でミュージシャンの演奏ボランティアは一旦待った方がいいです。衣食住が整ってない時に音楽のボランティアは迷惑になります」とし、「音楽家の出番はある程度、衣食住が確保されてから。東日本大震災の時の教訓です」と呼びかけたことが話題となり3万以上の“いいね”がついた。ユーザーからは「タイミングを間違えたらただの自己満足」「音楽を楽しむ環境をまずは整えないと」とのコメントが殺到した。

自衛隊によって運び込まれる物資(撮影/集英社オンライン)
自衛隊によって運び込まれる物資(撮影/集英社オンライン)
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これについて、震災当時は南三陸町の観光ホテル「南三陸ホテル観洋」に勤務し、現在は南三陸さんさん商店街事務局の佐藤潤也氏は言う。

「僕の経験では、今が一番しんどいときだと思います。断水、停電、燃料不足による寒さはもちろん、トイレも足りないし、風呂に浸かって一息もつけない。空腹をしのぐ以上に再建の不安の中でなんとか日々を繋いでいることと思います。音楽を聴く余裕はないでしょう。僕は被災直後はホテルにいましたが、その後は両親のいる避難所の寺に合流したんです。そこから5ヶ月間、避難所にいました」

被災直後、何よりもほしかったのは靴下と靴だったという。

「被災当時のままの靴下と靴をずっとそのまま履いてたもんだから、ものすごい臭いを放つんですよ。みんな同じです。寺ではお米には困らなかったから、側溝のU字溝とグレーチングを外して洗って、それで魚を焼いて食べてました。寺は近くの大きくて大人数いる小学校避難所よりも物資が届くのが遅かったですが、小学校に届いた物を分け合ったりしてね。タバコを吸う人はタバコが何よりもうれしいと言っていたし、本当に欲しいものは個々で違いますからね」

物資受け入れで困ったものもあったという。

「被災直後は全てが不足していたから、それこそ中古の毛布でも洋服でも何でもありがたかった。でもやがて新品などが潤沢に揃えば中古品は不要となってしまう。当時はとりあえず何でも送ってしまえというような感覚があったのだとは思いますが、やはりお送りいただくのであれば中古ではない新品の物のほうが長く重宝されるのだと思います」

東日本大震災直後の南三陸町(撮影/村上庄吾)
東日本大震災直後の南三陸町(撮影/村上庄吾)

震災当時、宮城県南三陸町で43人が犠牲になった役場の職員で、住民の避難誘導にあたっていたために一命を取り留めた高橋一清さんにも話を聞いた。高橋さんは現在、震災伝承施設、「南三陸311メモリアル」の顧問を務めている。

「あの日、町の幹部をはじめ多くの仲間は防災対策庁舎にいて、3階建ての屋上を超える高さの津波が押し寄せ43人が犠牲になり、助かったのは屋上のアンテナにしがみついた10人でした」

「能登半島の人たちのことを思うとなんとも言えない気持ちだ」としながらも高橋さんは言う。

「当時、被災者生活支援の部署にいたので、もちろん支援物資の振り分けなどを行なっていました。やはり中古の毛布や衣類などは新品が揃うと不要になる。とはいえ処分することはなく、リサイクル業者などに送って復興予算に換金したりもした。半月から1ヶ月ほどは届いた物資などをうまく配分していたが、おにぎりなどの食材が管理などの問題で糸を引くような状況になってしまい、処分せざるを得なかったものもあります」