摂関政治の不安定さで、藤原氏は没落していった
なぜ政治形態が変わっていったのか。
大きな理由のひとつは、摂関政治の不安定さにあったのではないかと僕は考えます。先にも述べたように、摂関政治は娘が生まれ、なおかつその娘が天皇の子どもを身ごもることで完成するもの。非常に偶然性に左右されやすい脆弱な政治形態です。
事実、藤原氏は平安時代の後期になると急速に力を失っていきますが、その原因となったのは「次期天皇が生まれなかったから」なのです。
藤原道長といえば、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という有名な歌にあるように、摂関政治の最盛期を築いた人物です。
その栄華は、宇治の平等院鳳凰堂を建てた、道長の息子・頼通の時代までなんとか続きました。しかし、この頼通の晩年近くに台頭するのが、天皇の父や祖父が権力を握る「院政」でした。
院政が始まるきっかけとなったのは、皇族の両親を持つ後三条天皇の存在です。
平安時代の歴代の天皇は、藤原氏の母親を持つことが一般的でした。しかし、後三条天皇は、約二百年ぶりに藤原氏を母親に持たない天皇として即位しました。
皇族の血が強い天皇が即位すれば、当然藤原氏の権力は弱体化します。
にもかかわらず、なぜ藤原氏は後三条天皇の即位を阻止できなかったのかといえば、藤原氏の血を引く天皇家の男児が生まれなかったからです。
まさに、摂関政治が偶然性に頼り過ぎていて、非常に脆弱な政治構造だったからこそ、起こった出来事だと言えます。
文/本郷和人
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